参禅とは、行いを観じ、如来蔵を思惟参究し、真如仏性を証得することです。参禅は人を探す理に似ています。人を見つけるにはまずその人を知り、あるいはその人の写真を持ち、心中にその人の姿を覚えておかなければ、見つける可能性が生まれます。
次に、どこを探すべきかを知る必要があります。目的もなく闇雲に探すのは大海に針を探すようなもので、望みは薄いでしょう。さらに、その人が現れる可能性のある場所をすべて把握し、どこに人が潜み、どこに隠し通路があるかを知らねばなりません。第三に、適切な交通手段と時間、旅費が必要です。その人を見分ける眼力もなければ、対面しても気づかないでしょう。最も確実なのは、その人を知り、場所を覚えている案内人を得ることです。これが最速の道です。故に一人の人間を見つけることさえ容易でないのに、ましてや我々が無始劫以来ずっと知り得なかった真如仏性は、さらに困難を極めます。
よって参禅には基礎を固め、必要な条件を整えるべきです。基礎作りとは菩薩の六波羅蜜を修行することで、一つでも欠ければ証悟できず、参禅も力になりません。人を探す方法と同様、参禅で真如心如来蔵を見つけるにも幾つかの段階が必要です。
まず如来蔵の体性を理解しなければなりません。般若心経や金剛経など大般若経を熏修し、正知見を備えて初めて如来蔵を探求できます。
次に、如来蔵がどこに現れるかを知る必要があります。般若の学びを通じ、五陰の様々な活動の中、六根が六塵に触れる際に現れることを明らかにします。生縁は至る所にあり、至る所に生縁があるのです。妄法の現れるところには必ず如来蔵が顕現し、全ての法の出生は真妄和合によるものです。真妄和合の場は重要な観察点であり、この知見は必ず備えるべき肝要です。
さらに、如来蔵が五陰の活動中に現れる以上、五陰の体性も明らかにする必要があります。七識が色身に作用して五陰を成すなら、七識が鍵となります。七識の体性を理解すれば、真法も妄法も明らかになり、真妄和合の時、様々な五陰の妄法の中から真法を見出すことができます。
これらは全て正知見です。正知見を得たら、福徳と相応する定力で参究し、最も重要なのは善知識の導きを得ることです。これにより無駄な道を歩まず、盲目の修行を避けられます。定力を具えるには、持戒と忍辱が前提で、精進の心も必要です。これが菩薩の六波羅蜜の大要です。詳細は自ら経典を参照し、細心に体得して実践すべきです。最後に時節因縁が熟する時を待てば、第八識如来蔵を見出し、明心悟道できるのです。
故に菩薩の条件を満たすことが、我々の目指すべき方向であり、修行の出発点です。修行は焦って進むものではなく、一歩一歩、一段階ずつ進むべきです。足腰が強くならなければ走れず、功を急ぐ考えは克服せねばなりません。
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