意根が法を念じなければ、意識はどのように念じるのでしょうか。意根と念じられる法が接触し、識別しようと考えると、如来蔵はそれに従って意識を生じさせます。意識は意根の指令に従うことで、意根が念じる法を念じ続けて識別します。もし意根が法を念じなければ、法と接触せず、識別や造作(形成作用)をしようとしません。そうなると如来蔵は意識を生じてさらなる行為を起こすことができず、法を念じる意識は存在しません。
意根がどの法を念じなければ、その法は現れません。意識が念じる法はすべて意根が念じた結果であり、意根が配置し動かした結果です。意識は意根との接触縁(触れる縁)がなければ生じず、意根の思心所(思考作用)の決定がなければ生じません。意識は単独で自身の生起や一切の活動を決定できません。それは主体としての識(作主識)ではないため、自在ではないからです。意識は意根の道具であり、意根の指揮に従います。
五識(五感の認識作用)にも念心所(記憶・注意の作用)があるのです。ましてや、これほど敏捷で重要な主体としての識(作主識)であれば、さらに念心所を持っているのは当然です。
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