龐蘊居士が馬祖道一禅師に問うた。「万法とともならぬものは何者か」と。禅師は言った。「汝が西江水を一口で吸い干す時が来たら、その時に教えよう」。龐蘊居士はこれを聞いて直ちに悟った。何を悟ったのか。この万法とともならぬ、物ならぬものを悟ったのである。それは何ものか。なぜ万法とともならぬのか。
龐蘊居士が悟ったのは自性清浄心である。この心は万法とともならず、なぜなら如来蔵には色がなく色とともならず、音声がなく音声とともならず、香りがなく香塵とともならず、味がなく味塵とともならず、触覚がなく触塵とともならず、法がなく法塵とともならぬからである。如来蔵には六根がなく六根とともならず、六識がなく六識とともならぬ。如来蔵には四聖諦がなく四聖諦の法とともならず、菩薩の六波羅蜜がなく六波羅蜜とともならず、如来蔵には十二因縁がなく十二因縁法とともならず、如来蔵には世間法がなく、いかなる世間法ともともならぬ。世間がことごとく滅んでも、如来蔵は滅びない。ゆえに如来蔵こそが万法とともならぬ心なのである。
また、如来蔵は万法と混ざり合わないゆえに、『阿含経』の説く「不相在(あいまじわらず)」である。五蘊十八界は如来蔵の中になく、如来蔵は五蘊十八界の中にない。両者は同類ではなく混ざり合わず、同一の事物ではなく、同じものではないから混ざり合えないのである。五蘊が滅んでも如来蔵は滅びず、それ自体が単独で存在し、いかなる一法にも依存せず存在する。ゆえに万法とともならぬのである。
馬祖禅師が龐蘊居士に「汝が西江水を一口で吸い干す時が来たら、その時に教えよう」と示した。実はこれですでに説き明かしているのである。ただ、一般人の意識や思考、想像、推論で知り得るものではない。龐蘊居士もまた聡明な人物であり、この時すでに、あの「それ」が現れ出ることを知ったのである。彼の智慧は尋常ではなかった。現代の我々のように「西江水を飲み干せるはずがない」と考えて諦めること――その諦めることが悟りだ――とは違う。あるいは「西江水もまた我が心の現れであり空である」と理屈で理解することを悟りだとするなら、それは誤りである。それでは如来蔵の心体を悟ることはできず、まして如来蔵がどのように五蘊や万法を生じるかを知ることはできない。
ところで我々は毎日水を飲むが、それをただの日常のこととして見過ごしてしまう。ここに奥義があることを全く知らない。これを「日用にして知らず」という。趙州和尚は普段、訪ねて来る人に「茶を飲みに行け(喫茶去)」と言っていた。大禅師の言葉には特別な意図があり、深い意味が込められている。残念ながら、一般人はその意味を理解できず、ただ漫然と茶を一杯また一杯と飲み、結局何も得るものがない。我々は茶を飲む時にこそ、自らに問うべきである。「誰が茶を飲んでいるのか? 茶を飲むことの原理は何か?」と。そうすれば遅かれ早かれ、その中にある秘密を悟る日が来るであろう。
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