趙州和尚はこのように説かれております。「至道は難きこと無し、ただ選び分けることを嫌う。言葉あるが早いか、それは選別であり、理解であります。この老僧は理解の中にはございません」と。初めの二句は禅宗第三祖の教示で、大いなる道を悟ることに難しさはないが、思考・選択・分析・判断・推理・識別など心の働きを起こす意識心を大道と見做すならば、それは的を外れた行為であるという意味であります。これらの心の働きを大道と考えることは、道に背く行為であります。これらの心の活動は大いなる覚りである本覚とは相応せず、本覚自性は選り分けず、主宰せず、分析せず、判断せず、思考を抱きません。第八識たる本覚にはこれらの心の働きがなく、もしそのような活動があれば、それは必ず意識心のなせる業であり、本覚ではございません。
趙州和尚はこれを解説されました。「言葉や文字、内なる思考が生じた瞬間、それは既に選別であり、理解であります。この老僧はそもそもそのような理解の中にはいない」と。趙州の意図するところは、本覚たる第八識には言葉がなく、語ることも、思考・分析・判断することも、いかなる選別もなく、一切の六塵境界を理解し認識しないということです。このような理解認識の性質は意識心に属し、真実の趙州たる私ではございません。
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