衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月18日    月曜日     第1開示 合計1271開示

有為と無為とは何か

為は、為すためであり、目的であり、要求であり、求めることである。

有為とは、求める心があり、要求があり、造作(作為)があり、得るものがあり、求めるものがあり、目的があり、心の働きがあり、造作があり、我があり、四相(我相・人相・衆生相・寿者相)があることを指す。無為とは、これらの心念がないことで、有為とは反対である。

求める心がない心は無為である。得る心がない心は無為である。三界世間に対して心の働きを持たない心は無為である。生み出される法(もの)ではないものは無為である。心の量が広大で際限がない心は無為である。煩悩がない心は無為である。三界世間の法を必要としない心は無為である。いかなる条件もなく存在できる心は無為である。造作を望まない心は無為である。我のない心は無為である。四相のない心は無為である。

如来蔵は無為の中にあって私心なく衆生のために奉仕し、三界の一切の法を運行する中心にあって、しかも無為である。無為の中に有為があり、有為の中に無為がある。七識(末那識)がある程度修されると、初めて有為性から徐々に無為性へと転じ、有為を中心としながらも無為であり、次第に如来蔵に相応する。完全に無為となり完全に相応する時、仏となる。

ただ如来蔵という無為の心のみが一切の法を離れて存在できる。七識の心の無為は、三界世間の法から離れられず、無為の如来蔵から離れられない。如来蔵というこの無為法は、三界の有為を離れても、それだけで存在できる。つまり無余涅槃の時、無余涅槃の中では、如来蔵は寂滅無為であり、一つの法すら造作せず、清浄で最極の清浄である。ゆえに有為法を離れても、なお無為法である如来蔵が存在する。それゆえ祖師は言う:「有無は天地に先立ち、形なくして本より寂寥たり」と。

——生如法師の開示
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出家の功徳と利益----『仏説出家功徳経』抜粋

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禅に境界はない、しかしあらゆる境界には禅がある

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