衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月18日    月曜日     第3開示 合計1273開示

風が動く? 幡が動く? それともあなたの心が動いているのか?

『壇経』において六祖が説いた、風が動くのでもなく幡が動くのでもなく、仁者の心が動くという公案。この公案には、外相である風や幡の動きが関わっており、また識心の動きも関わっている。それだけでなく、真実心である第八識の不動転にも関わっている。我々の七識の妄心は攀縁し、境界相に執着するため、風の動きや幡の動きを見ることができる。六識は見るものがあり覚受があれば、すなわち動いているのであり、識心が動けば相を見、相を見れば相を取る。六根が六塵に触れると、第八識は六識を生じ、六識が再び六塵に触れることで見聞覚知が生じ、すべてのことを知るようになる。

したがって、知があると識が生じ、識があると、意根が六塵に攀縁していることを示し、七つの識心はすべて動いている。もし意根が攀縁しなければ、塵に触れようとはせず、第八識もまた六塵を了別する識を生じない。意根の執着と攀縁が重ければ重いほど、六識の分別は多くなり、心はますます清浄ではなくなる。そして、これらすべての識の動きの中で、真実心である第八識は微動だにせず、常に寂静であり、寂然として動かない。たとえ風がどのように動こうとも、たとえ幡がどのように動こうとも、真実心は覚知せず、全く気にかけず、分別せず、念想を動かさず、極めて寂静である。しかし、あの風幡が大きく動く時には、全く動かない真実心である第八識を十分に見つけることができるが、それは当人の福徳と定慧の如何による。

風幡が動く時、第八識は動かないが、これはまだ悟りを得ていない普通の人に対して説かれたものである。第八識は動くとも言える。なぜなら第八識は決して暇なことがなく、常に識種を輸送し、根身器界を了別しているからである。第八識が作用しなければ、内相分は全く生じず、識心も生じないため、識心は風幡が動いていることを知らない。しかし第八識の動きは、七識心の動きとは異なり、永遠に三界世間の六塵境界法の中で心を動かさない。そのため真如は動かず、如如不動であると言われるのである。

——生如法師の開示
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