『六祖壇経』において六祖が説かれた、風の動きでも幡の動きでもなく仁者の心の動きであるという公案。この公案には外相たる風幡の動転が関わり、また識心の動転も関わるが、それだけでなく真実の心である第八識の不動転にも及んでいる。我々の七識の妄心は攀縁し、境界相に執着するが故に風の動きと幡の動きを見るのである。六識に見るもの感じるものあれば即ち動いたのであり、識心が動けば相を見、相を見れば相を取る。六根が六塵に触れると、第八識は六識を生じ、六識が再び六塵に触れることで見聞覚知が生じ、一切の事を知るのである。
故に知が生じれば識が生じ、識が生じれば意根が六塵に攀縁したことを示す。七つの識心は全て動いている。もし意根が攀縁しなければ、塵に触れようとせず、第八識もまた識を生じて六塵を了別することはない。意根の執着攀縁が重ければ重いほど、六識の分別は多くなり、心はますます清浄でなくなる。しかしこれら一切の識の動きの中にあって、真実の心である第八識は微動だにせず、常に寂静であり、寂然として動かない。風がどれほど激しく動こうとも、幡がどれほど激しく動こうとも、真実の心は覚知せず、全く顧みず、分別せず、念想を動かさず、極めて寂静である。しかしながら風幡が激しく動く時こそ、全く動かない真実の心第八識を見出すことができるが、それは当人の福徳と定慧の如何によるのである。
風幡が動く時、第八識は動かないと言うのは、まだ悟りを得ていない凡夫に対する説き方である。第八識は動くとも言える。なぜなら第八識は常に休むことなく、識種を送り続け、根身器界を了別しているからである。もし第八識が作用しなければ、内相分の生起は全くなく、識心も生じず、識心は風幡の動きを知ることはない。しかし第八識の動きは七識心の動きとは異なり、永遠に三界世間の六塵境界法に心を動かすことがない。故に真如は動かず、如如不動であると言うのである。
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