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日常法話

2019年02月19日    火曜日     第2開示 合計1275開示

一切の諸法は真如性であります

『壇経』において六祖は言う:一切の諸法がもし無常であるならば、すなわち物々にそれぞれ自性があり、生死を受け容れることになり、そうなると真常の性に遍くないところが生じる。ゆえに私が説く「常」こそが、まさに仏の説く真の無常の義なのである。

自性が一切の法を生じたのであり、一切の法の本質もまた自性である。自性は常であるから、一切の法を自性に依って説けば、すなわち常となる。もし一切の法が無常であるならば、一切は自ら体性を持つことになり、自ら生じ自ら滅することが可能となり、もはや自性から生じたものではなく、自性によって生み出される必要もなくなる。そうなると自性には遍くないところが生じる。しかしこれはありえないことである。ゆえに一切の法は自性に依って説けば、すべて真如自性の常性なのである。もし一つの法が無常であると言うならば、その法は自らの体性を持つことになる。なぜなら自らの体性があるからこそ生死という説があるのであり、そうなると真如には遍くないところが生じ、生み出すことのできない法が存在することになってしまう。

一切の諸法は真如自性に依って説けば、すべて真如の性であり、生ぜず滅せず。なぜならこれらの法はすべて真如自性によって生じたものであり、すべて真如の性を具えているからである。したがって一切の法もまた常存して滅することはない。真如自性がある限り、常に一切の法の出現がある。もし一切の法がすべて無常であるならば、滅したものは再び生じることができず、生じることができないということは、真如自性が作用せず、法を生み出せないことを意味し、それは真如自性に遍くないところがあることになる。しかしこれはありえない。真如自性は一切のところに遍く満ち、一切のところ一切の法はすべて真如自性である。一切の法があるところには真如自性がある。さらに言えば、真如の中には本来、種子が生滅せず永遠に存続しており、ただ因縁に遇うことを待って、一切の法を生じ出すのである。

六祖の言わんとする意味は、一切の諸法がもし無常であるならば、一切の事物はすべて自らの体性を持つことになり、これらの事物は自ら生じ自ら滅し、生滅を止めることがなくなる。そうなると真如自性によって生み出される必要がなくなり、自性には普遍しないところが生じる。これは経典の教えに背くことである。ゆえに六祖が説く一切の諸法は常であるということが、まさに仏の説かれた真実の無常の義理なのである。一切の諸法が常であるということは、一切の諸法がすべて自性によって生じ顕現されたことを示しており、そうであれば一切の法には自らの体性がない、したがってそれは無常なのである。

——生如法師の開示
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