衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月20日    水曜日     第1開示 合計1276開示

蘇東坡と了元仏印禅師の問答

宋代、蘇東坡と了元仏印禅師は親しい友人同士で、二人はよく共に仏法について議論していました。ある日、仏印禅師が「お互いの仏法に対する見解を比べてみないか。負けた方が罰として物を差し出すことにしよう」と言うと、蘇東坡は承知しました。禅師が先に「私はあなたを一尊の仏のように見える」と言うと、蘇東坡は「私はあなたを大きな汚物の山のように見える」と答えました。すると仏印禅師は「あなたの負けだ。腰に付けている玉帯を罰として頂く」と言い、蘇東坡の玉帯を解いて自ら受け取りました。皆さんはどう思われますか、なぜ蘇東坡は負けたのでしょうか。

仏印禅師は悟りを開いていたため、自らの如来蔵の存在と働きを照見でき、衆生の身の中にある如来蔵も理解できました。衆生には皆如来蔵が顕現しており、将来この如来蔵によって仏となれるため、一切の衆生を仏と見なしていたのです。一方、蘇東坡は悟りを開いておらず、自分自身や衆生の身中の如来蔵と仏性を理解していなかったため、相に執着し、衆生を見ても表面的な仮の姿しか見えず、仏印禅師の外相を汚物の桶のように見てしまいました。これは蘇東坡の自心が清浄ではなく、諸法の実相を見ていないことを示しています。

仏印禅師には智慧があり、相手の相を仏の相に変えることができました。心が仏に変われば仏となることができ、仏に近づき、仏に寄り添って住すれば、成仏は早まります。蘇東坡は一代の文豪であり、詩文を巧みに操り、文才と弁舌に優れていましたが、残念ながら口先だけの禅が多く、実践が少なく、その生涯では悟りを開くことはありませんでした。明代に生まれ変わって著名な禅師となりましたが、依然として文才に優れ、詩情画意も多く、数多くの仏法に関する著作を残しました。悟りを開いたと言われていますが、実際のところは不明であり、彼の智慧は依然としてあまり高くありませんでした。その原因は前世の文豪としての習気が後世まで続き、実践の修行がまだ深く透徹していなかったことにあります。

蘇東坡の意根(マナス)は禅師の相を悪い相として執着し、意識心はそれを悪い相として分別しました。つまり蘇東坡の意根と意識心はどちらも染まっていたのです。第八識(アーラヤ識)から送り出される二つの心の種子が汚れていたことは、蘇東坡が二つの識心をよく修行しておらず、識心が転換しておらず、内心が依然として汚れていたことを示しています。意根が他人の欠点を執着すればするほど、自らが染まっていき、理由もなく自心を汚してしまいます。何もそこまでする必要があるでしょうか。汚染を受けると、汚れた種子は第八識に蓄積され、将来第八識から送り出される識の種子はすべて汚れて清浄ではなくなります。そうなると、いったいいつ清浄さを取り戻せるのでしょうか。自らを汚したら自らで清掃しなければならず、面倒な上に苦悩も多くなります。常に他人の欠点に執着するべきではなく、他人の長所を見るべきです。そうすれば内心の相はすべて良い相となり、自心は良い相の影響を受けて心は良くなり、第八識に蓄えられるのはすべて良い種子、善の種子となります。識心が善となれば、こうした修行はうまくいき、善であればあるほど仏に近づくのです。

——生如法師の開示
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