衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月22日    金曜日     第1開示 合計1280開示

十方世界の最初の仏、威音王仏は如何にして悟りを開かれたのでしょうか?

十方世界の第一仏である威音王仏は、いかにして道を悟られたのでしょうか。他の仏が「一切の法は如来蔵の本性である」と開示することなく、ご自身でどのようにして「不生不滅の阿頼耶識があり、それが五陰世間の一切の法を生み出す」ということを探り当てられたのでしょうか。一切の世間法における無常・変異・生滅の現象は、証得することが極めて難しいものの、長期にわたる観察によって観察可能ではあります。では、阿頼耶識はどのように観察され、証得されたのでしょうか。後世の者たちは諸仏の教導のもと、多生多劫を経て第八の如来蔵が常住であることを認めるに至ります。しかし第一仏は完全に自力で第八識の存在を観察し見出されたのですから、まさに不可思議であり、成仏の道程における一歩一歩が現実的に歩まれてきたのです。いかにしてそれが成し遂げられたのでしょうか。

一切法空は自証自通できても、如来蔵が一切の法を生み出すということは、自証自通が極めて難しいのです。ただし「天地に先んじて存在するものあり、形なく本来寂寥である」と示唆する者がいれば別ですが。独覚仏の修証も、それほど難しくはありません。世間の一切を放下し、努力して参究すればよいのです。しかし大乗の如来蔵の参究は、あまりにも困難です。それゆえ、天地を開いた第一仏は、極めて利根利智の方であったのです。

禅定は究極的にどれほど重要なのでしょうか。それはいかなる現量観察をもたらし、仏陀があらゆる法を連関させ、まとめて如来蔵に帰結させることができたのでしょうか。理論と事相に対する観察思惟、どちらがより重要でしょうか。もちろん現量観察がより重要です。第一仏は開拓者であり、依拠すべき理論は全くありませんでした。ご自身ただ一人で、様々な事相を一点一点観察し思索し、ついに正しい結論を導き出され、理論を形成して後世の人々が依拠するに至ったのです。五蘊無我の法がこれほど詳細に説かれているにもかかわらず、無数の人々がなお入門できずにいます。衆生の間の差はなぜこれほど大きいのでしょうか。先駆者による正しい理論の導きがなければ、後世の者たちは盲人が象を撫でるようなものとなってしまいます。

第一仏は何をもって自修自悟し、一切法を証得されたのでしょうか。深遠なる禅定と智慧、強力な論理的思惟能力、真理を探求する勇気ある不屈の意志――これらの資質は、普通の人々が比べられるものではありません。第一仏は、一人として依る者なく、一つの法として依るべきものもありませんでした。ただ一人で長期にわたり弛まぬ努力を重ねて世間の真理を探求し、一切法が存在する事実と真実を究明されました。威音王仏が依られたのは事実の真実のみ、それもご自身が単独で探求し見出されたものでした。私たち後世の者は、いかにして威音王仏に学び倣うべきでしょうか。智者は威音王仏に学び、事実に基づいて語り、勇気をもって真理を探求すべきです。そうすれば後には必ず仏となります。威音王仏も、禅定の力がほんの少しでも足りなければ仏とはなれませんでした。禅定の功徳を全くのよりどころとせず、すべての真理を探求し得たのです。私たちも、できる限り自らの戒・定・慧に依るべきです。

——生如法師の開示
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