十方世界第一の仏である威音王仏はどのようにして道を悟られたのか。他の仏が一切法は如来蔵性であると示すことなく、どうして自ら不生不滅の阿頼耶識が五陰世間の一切法を生じることを探り当てられたのか。一切世間法の無常変異生滅の現象は証得が極めて困難ではあるが、長期にわたる観察によって観ることができる。阿頼耶識はいかに観察し証得されたのか。後世の者たちは諸仏の教導のもと、多生多劫を経て第八如来蔵の常住を認めるに至るが、第一の仏は全く自力で第八識の存在を観察されたとはまことに不可思議である。成仏の道程の一歩一歩を現実的に歩まれたが、いかにしてこれを成し遂げられたのか。
一切法空は自証自通できるが、如来蔵が一切法を生じることは自証自通が極めて難しい。ただ「天地に先立つものあり、形なくして本より寂寥なり」と示唆されなければならない。独覚仏の修証もさほど難しいものではない。ただ世間の一切を捨てて工夫参究すればよい。大乗如来蔵の参究はあまりにも困難である。故に天地を開いた第一の仏は極めて利根利智の方であった。
禅定が究極的にどれほど重要か。どのような現量観察をもたらし、仏が一切法を連関させ如来蔵に帰結させられたのか。理論と事相の観察思惟、いずれがより重要か。もちろん現量観察が重要である。第一の仏は開拓者であり、全く依るべき理論がなかった。ただ独りで様々な事相を少しずつ観察思索し、最終的に正しい結論を導き出され、理論を形成して後世の拠り所とされた。五蘊無我の法をこれほど詳細に説かれても、無数の人々が門に入れない。衆生の差別がなぜこれほど大きいのか。先駆者による正しい理論の導きがなければ、後世の者は盲人摸象の如きである。
第一の仏は何をもって自修自悟し一切法を証得されたのか。甚深の禅定と智慧、強力な論理思惟能力、真理を探求する勇猛な意志、これらの資質は凡夫の及ぶところではない。第一の仏は依るべき人も法もなく、ただ独りで長劫にわたり世間の真理を探求され、一切法存在の事実と真相を求められた。威音王仏は事実真相のみを拠り所とされ、しかも独力で探求された。我々後世の者はどう威音王仏に学ぶべきか。智者は威音王仏に学び、事実に基づき真理を探求すべきである。必ず後世に仏となる。威音王仏は禅定の功徳が僅かでも欠ければ成仏できなかった。全く禅定の功徳によって一切の真理を探求され、依るものなき中で成し遂げられた。我々も自らの戒定慧を極力拠り所とすべきである。
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