内相分の影とは、私たちが接触し、了別する一切の法は全てブラックボックスの中の内相分の影である。所謂る内相分とは、第八識が外相分に基づいて勝義根の所に顕現させた影である。例えば私たちがベッドに座っているのは、外側のベッドの影の上に座っているのであり、実質的な外側のベッドに本当に座っているのではない。四大が組み合わさった相対的に真実なベッドには、私たちの身体は全く接触できず、私たちの身識は外側の真実のベッドに触れることができない。外側の五塵に触れることができるのは第八識のみである。そして外側の五塵は、縁ある衆生の第八識が共同で造り出したものであり、私たちが単独で所有するものではない。凡そ縁ある衆生は皆その一部を有している。
従って外側のあのベッドは、他人も座ることができ、他人が自分の家に運び去ることもあるが、他人が座るベッドは、彼ら自身の第八識が外側のベッドに基づいて再び顕現した内相分の影であり、外側の相対的に真実なベッドではない。私たち全ての衆生の身識が接触できるのは、ベッドの内相分の影のみである。この影は仮象であり、私たち自身の第八識が相対的に真実なベッドに基づいて、再び単独で造り出し、私たちが単独で受用するものである。如何なる他者も決して受用することはできず、この影こそが私有財産であり、その他は全て公共財産である。
私たちが座っているベッドが真実であると感じ、自分が本当にその上に座っていると思うのは、実はそれが影に過ぎず、私たちの身識は影に接触し感受しているのである。衆生は無始劫以来、様々な影を真実と見做し、その中で心を動かし念を起こし、種々の分別・執着・妄想をしてきた。実は一切の感覚は錯覚であり、ベッドが硬いとか柔らかいとか快適だとか感じるのは、その軟硬の感覚が錯覚であり、私たちの身識と意識が影に対して分別を生じた後に生起する感受である。猿が水に映る月を本物の月と思い、手ですくおうとしても何も得られないのと同じである。
鏡に映った自分の影を他犬と思い込み、大声で吠えて追い払おうとする犬のように、私たちは無始劫以来このような愚痴を抱え、あの犬や猿と何ら変わらない。仏陀はかつて比喩を説かれた。衆生が六塵の境界を追い求めるのは、愚かな犬が石を追いかけるようなものだと。人が石を投げればすぐに駆け寄り、風で草が揺れると大事件があると思い込み、草の揺れる方へ向かって狂ったように吠え立て、風の動きすら弁えられない。故に仏陀は私たちを憐れみ、人間界に降臨され、大乗の実相法を伝授し、一切の虚妄相を離れ、真実の空性心に回帰することを教えられた。
同様に、私たちが椅子に座るのも皆同じで、接触するのは影であり、その後虚妄の覚受が生じる。陽の光を感じるのも外側の日光の影に接触し、熱さや温もりの虚妄感覚が生じる。全ての感覚はこのように虚偽不実である。実際には本当の陽光にも、外側の微風にも触れることはできず、接触しているのは第八識が陽光と微風を顕現させた影に過ぎない。では私たちが陽光の温もりを感じ、微風の快適さを覚えるのは、これらの感覚が全て錯覚であり、虚妄の感受である。六識が分別できるのは影相のみであり、その後様々な感受が生じるが、これらの感受は全て幻覚であり、当然真実ではない。
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