衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月23日    土曜日     第1 回の開示 合計1286回の開示

貪愛は悪道に托生する主な要因です

真に解脱を求める仏法修行者は、日々の生活の中で自らの心に生じる様々な覚受を仔細に観察すべきである。何に貪愛し、何事に執着し、何事に心を砕き精力を注いでいるかを点検しなければならない。そのような心の動きを見出したならば、それがいかなる心理によるもので、いかなる意義を持ち、どのような結果を招くかを分析すべきである。そして貪愛と覚受を対治する方法を工夫すれば、修行における覆いが取り除かれ、道業の進歩は早まるであろう。

我々が無始劫より培ってきた貪りの習気は極めて重く、自ら気付くことは容易ではない。慣れ親しんだが故に常態化しており、既に貪りの習気を断じ降伏させた経験者でなければ、自他における貪心を認識することはできない。長く香庭に居れば香りを覚えず、久しく便所に居れば臭気を感じぬが如く、香庭の外に立つ者こそ清香を嗅ぎ分け、便所の外に在る者こそ悪臭を識別できるのである。

貪りの範囲は広範にわたり、欲界における法で好むものは全て貪りに属する。詩詞歌賦に長けた文豪や、筆勢自在の画工は、ほとんどが鬼道に趣き風雅を極める。それらは全て貪りに帰するゆえ、ましてや他の方面、情愛にまつわるものは更に貪りが深く、鬼道での受生から離れられない。常に馬を描く者はその神髄を写し取り、死後は馬胎に生まれ、鬼神小説を綴る者はその妙を極め、死後は鬼道に生を受ける。常に念じる所のものと、死後相伴うこととなるのである。画工が馬を描くことに専心すれば、心は馬と相応じ来世に馬身を託し、鬼神小説を綴る者は心を鬼神に投入し、鬼神と相応じて死後鬼道に堕す。今我らが念仏する時、心は仏と相応じ、必ずや仏の傍らに生まれ出づる。心が善と相応ずれば善道に生まれ、悪と相応ずれば悪道に堕するのである。

鬼道における業報が尽き、なお若干の福徳を残す者は畜生道に生を受け、畜生道の業報が尽きてなお福徳の残る者、初めて人間界に再生する機縁を得る。されば人身を得る時間は極めて短く、三悪道に在る時間は甚だ長い。全ての衆生は苦受多く楽受極めて少ない。故に我らは来世を慮り、現世の享福を控え、後世のために福を蓄えるべきである。大いなる福徳こそ、速やかに人身を得る所以なのである。

善根福徳厚き者は仏の傍らに在り、仏の指導と薫染を受け修行は飛躍的に進む。仏の不在においても、煩悩を断じた菩薩や阿羅漢の傍らにあれば、修行は同様に速やかに進展する。朱に交われば赤くなるが如く、墨に近づけば黒くなる所以である。大いなる貪りは細心の観察で気付くこともあれど、微細な貪りは数多く、煩悩を断じた者でなければ識別し得ない。人身を得る機会は如何に稀か、人身を得る時間は如何に短く、人身を得て証果し解脱する者は如何に稀少なるか。既に人身を得た我らは、この得難き機会を如何に捉え、精勤して修証を積み、微少ながらも解脱を得るか。これこそ常に深く思惟すべき問題である。

——生如法師の開示
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