外側の六塵世界はあたかも実在するかのように、実体ある物質が存在しているように見えますが、その実在性も内相分に対して相対的に説かれたものです。外界の物質世界もまた、共業の衆生の第八識が共同で四大種子を送り出し変現したものであり、存在するといえども仮の存在、幻の存在であって真実ではなく、すべて第八識の幻影であります。しかもそれは縁ある共業衆生すべての第八識が共同で変現した幻影であり、単独の衆生の第八識では変現できません。
外界の六塵世界、物質世界は、私たちの後頭部の黒匣子にある内相分に比べると、やや実体的に見えます。四大から成る実質的な物質世界ですが、第八識のみが実質的な四大から成る相分物質に接触でき、六識や七識では接触できず感知することもできません。七識心にとって外界は存在しないも同然であり、私たちが接触できるのは単なる影像に過ぎません。
私たちは無始劫以来、内相分を外相分と見做し、実体ある物質世界と錯覚してきました。内相分と外相分が極めて相似し、ほとんど同一であることを知らないからです。そこで私たちの身識・眼識などの六識がこれらの影を分別する際、影を実体と見做し、影に対して絶え間なく分別計較を続けるのです。日々「私は本当に飲食を口にした」と感じて飲食に執着し、「本当にベッドに座った」と感じて快適な寝台に執着し、「本当に水を飲んだ」と感じて美味しい飲み物に執着し、「衣服の柔らかさを本当に感じた」と感じて衣装に執着し、「本当に見て、手に取り、宝石を所有した」と感じて金銀宝玉に執着します。実はすべてが影であるのに、それらが内相分の影であることを知らないのです。
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