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日常開示

2019年02月23日    土曜日     第3 回の開示 合計1288回の開示

ブラックボックスの世界(八)

なぜ我々が触れるものは全て内相分であり、黒匣子の中の影なのでしょうか。別の角度から説明いたしますと、外色塵と我々の眼根には距離差が存在します。眼前の鼻先から極めて遠方の色塵まで、その距離差は甚大で、外眼根に伝達される時間は異なります。これらは全て如来蔵の所為ではありますが、伝達速度は光速を超えるほど極めて速いものの、依然として時間差が存在します。そうすると眼識の見るものには前後の区別が生じます。もし眼識が外色塵を見るのであれば、我々はまず眼前の色塵を見て、後に遠方の色塵を見ることになり、遠色と近色を同時に見ることは不可能です。もし我々が見ているものが後頭部の勝義根にある黒匣子内の内色塵であれば、事情は異なります。黒匣子内の色塵であれば、眼識が作意するやいなや、遠近高低を問わず同時に見ることができるのです。

黒匣子内の色塵は影であり、全て勝義根の中に存在するため、眼の勝義根との間に距離がありません。眼識が触れれば同時に全て触れることができ、近色を先に見て遠色を後から見るということがないのです。従って我々の眼識が見るものは全て黒匣子内の影であり、実質的な外色塵ではありません。眼識が内色塵に触れた後、内色塵を受容し領受し、内色塵を了別することで、どのような色塵であるかを確認します。そうして我々はその色塵を知るのです。そして遠色も近色も同時に知ることになりますが、実は遠近は虚妄の法であり、遠近など存在せず、ただの幻影に過ぎません。

我々が色塵を眼見する際、注意深く観察すれば、遠色と近色が共に眼に収まっているかどうか、遠近高低の全ての色が同時に我々の視界に入っているかが分かります。視覚範囲内の色は全て同時に見えており、時に作意がどの色塵に向けられているかにもよります。我々の注意力が一点のみに集中されている場合、あるいはごく少数の色塵に作意されている場合を除き、他の色塵が見えないだけです。注意力が一点に集中されていなければ、他の色塵は全て見えるのです。これが示すように、我々が見る色塵は第八識が既に勝義根の黒匣子内に変現した内色塵であり、我々が見ているものはこの影なのです。

我々が音声を聞く場合も同様で、遠声と近声は同時に聞こえます。左から来る音、右から来る音、上から来る音、下から来る音、東西南北四方八方から来る音を、我々は全て同時に聞くのです。それが聞こえる内声塵の影です。仏が楞厳経で説かれたように、耳根は千二百の功徳を円満し、四方八方の音声を全て耳に入れ聞くことができます。障害物があっても音声はそれを通過して伝わってくるのです。

これは第八識が同時に四方八方の音声を耳根を通じて大脳の勝義根に伝達し、黒匣子の位置で内相分の音声影像を形成するためです。その後、耳識と意識がそこで変生します。従って耳識が音声を聞く時、四方八方の音声を同時に聞くことができるのです。ここから理解すべきは、我々が見る色塵や聞く音声は全て過去のものであり、了別する内容は既に完了した過去の事柄であるため、全て仮想で不実なものだということです。我々が行動を起こし対応策を講じる時には、更に一歩遅れているのです。これらの了別過程や対応行為は全て後手に回り、次の事象の発生を変更し影響を与えることしかできません。

天空で鳴る雷の音は耳根から極めて遠く、頭中の嗡嗡という音は耳根から極めて近いのですが、これらの音は全て同時に聞こえます。それが黒匣子内の音声です。天空の稲妻は眼根から極めて遠く、眼前一寸の指は眼根から極めて近いのですが、眼識もまた同時に見ます。それが黒匣子内の色塵です。遠方の栴檀香は鼻根から極めて遠く、顔面の香塵は鼻根から極めて近いのですが、鼻識もまた同時に嗅ぎます。それが黒匣子内の香塵です。天空の太陽光は身根から極めて遠く、頭痛の感覚は身根から極めて近いのですが、身識もまた同時に感じます。それが黒匣子内の触塵です。これらの五塵境界は全て後頭部の黒匣子内にある内相分の影像であり、識心が接触すれば全て同時に領受し了別できるのです。

——生如法師の開示
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