衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年12月31日    火曜日     第1開示 合計4306開示

意識と意根の二者の境界が一致してこそ証悟できる

望遠鏡なら瞬間にして数キロ、数十キロ先の高山や大海を見ることができますが、自らの目で高山大海を見て、触れるには、自ら数十キロの道のりを歩き、山のふもと、海のほとりまで行かなければ、肉眼で高山大海を見て、高山大海に触れ、その姿かたちと顔立ちを知ることができ、初めて人にこう言えます。私はあの山、あの海をこの目で見た、実に壮観極まりない、私の心の境地がたちまち開かれた、本当に嬉しい、と。三昧の境地もこれと似ています。意根が自ら赴き、望遠鏡を離れて、この目で見てこそ、定慧等持の三昧があります。意根が到達しなければ、それは望遠鏡を借りて見たものであり、真の見、条件のない見、裸の見ではありません。

意識は望遠鏡のようなもので、どれほど遠い境界を望もうと、その見たものは真ではなく、境界はぼんやりと曖昧です。意根の見たものは明瞭明白、徹底的で、法の底の源まで徹します。もし意根がついていかず、意識の見たものを望めなければ、それは肉眼で見たのではなく、現場に臨んでいるのでもなく、親証でもありません。意識の見るものは境界から遠く、見たものが真でないのは、まるで一枚のレンズを隔てたようで、何かが遮っており、景色は細やかでもなく曖昧で、ただ輪郭があるだけです。細部は意根が自ら見なければ明らかにできず、その所以を知ることはできません。

凡夫の地で意識がいくつかの仏経を読み、仏の境界を知ったとしても、意根が知らなければ、それは仏境の親証ではありません。この種の知は極めて粗雑で、知らないのと変わりません。仏境を親証し、細かに知り、深く知り、真に知るには、さらに三つの大阿僧祇劫、すなわち三つの無量劫を修行しなければならず、その間に近道はありません。修すべき法はすべて修め、証すべき法はすべて証さねばならず、戒定慧、三十七道品、菩薩六度といった種々の行持が一つでも欠けてはならず、その間の過程をすべて自ら経験しなければならず、手を抜いて近道をすることは絶対に許されません。

凡夫の地で、意識がいくつかの法を学び、八地菩薩が具えるべき無功用行の境界を知ったとします。法において任運に行じ、心を用いることなく、如来蔵の根身器界に対する了別と運作を現量で観察できること。しかし、この種の境界については、意識が知っていても知ったことにはなるものの、極めて粗雑で、実際に証得するまでには二つの無量劫の修証の距離があります。この期間は、何と言おうと、如来蔵が究竟どのように根身器界を了別し運行しているのかを現量で観察することはできません。この種の境界を自ら証得したいなら、さらに二つの大阿僧祇劫を修行しなければならず、その間の過程をすべて歩まねばならず、手を抜いたりごまかしたりすることは許されません。

凡夫の地で、意識が真如三昧という名彙を学び、とても素晴らしく殊勝だと感じても、具体的に何を真如三昧と言うのか、その境界がどのようなものかについては、内心まったく知らず、知見しているのはただの一種の憶想にすぎません。真如三昧の境界を自ら見るには、さらに一つの無量劫、すなわち一大阿僧祇劫の修行が必要です。真如三昧は真如の境界であり、一切法において証得されるもので、一切法あるいは一部の法がすべて真如性であり、すべて如来蔵の真実にして如如たる性質であり、すべて一真法界の一部だからです。

一切法が究竟どのようにしてすべて真如性なのか、どのようにして一つの真実の法界なのか、これは道種智・唯識種智の境界であり、初地以上で如来家に入った仏の子にのみ現量で観察する能力があります。初地以上の菩薩摩訶薩は法身を分証し、分証即仏であり、一真法界を分証して、初めて一切法の一部の真如性を知ります。凡夫はたとえ本当に如来蔵を証得したとしても、真如三昧の智慧境界からはあまりにも遠く、考えることしかできず、絶対に見ることはできません。見えたときには道種智を有し、入地の大菩薩となっているのです。

凡夫の地で、意識が金剛経を学び、一切法は夢・泡・影のようだと知っても、意識がどれほど一切法を夢・泡・影と感じても、さらに一阿僧祇劫近い修行の時劫を経て、十回向位に達して初めて如夢の境界を親証できます。その間には、次第に如来蔵を実証し、種々の三昧を発起し、初禅定を修めて得て、貪瞋痴の煩悩の現行を断除し、三果の人となり、禅宗の三関を過ぎ、有余涅槃を現量で証得し、命終に無余涅槃に入る能力を有しながら入らず、一品の思惑煩悩を残して生生世世の五蘊身を滋潤し、引き続き自度度人しなければなりません。これらの条件に達せず、これらの境界を経なければ、意識が感じる如夢幻泡影も、ただ食を説くだけで、どうして腹を満たすことができましょうか?

意識という望遠鏡で望み見たものと、意根が肉眼で見たものとは、非常に遠く隔たっているかもしれません。望み見ることは容易で速いのですが、親証には意根が足取りで一歩一歩測り、自らその境界の縁まで歩いて行って、初めてその境界を見ることができ、極めて辛苦で、大きな代償と努力を払わねばなりません。両者の見る境界は極めて一致しません。ですから、望み見たことは望み見たことであり、証得には相当長い時間を経て初めて可能となり、証得していないときはただ口先で言ってみるだけです。何かの法を証得することが容易だと思ってはなりません。それは錯覚であり、実際にはそのようではなく、非常に容易ではありません。無量劫の業障、業力は山のごとく大きく、そう簡単に排除して越えられるものではありません。仏の加持力が不可思議であるように、自分の業力もまた同様に不可思議なのです。業障が消除され、善根・福德など種々の因縁がすべて具足したとき、意根が意識との距離を縮め、意識の見るものと合一して、そのとき初めて頓悟がありえます。それ以外はすべて誤会の「誤」なのです。


——生如法師の開示
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意識の推理は観行 (vipaśyanā-caryā) と参究に等しくない

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