衆生は智慧が限られており、禅定が不足しているため、深く思惟することができず、意根の思量も働きません。やや深遠な法に対しては、推測や憶測の方法に慣れており、このような推測や憶測は意識心の機能作用であって、意根の智慧は微塵も及んでいません。最も深刻な推測的思考は、軽率に「悟りを開けば第八識が如何に根身器界を生じさせるかを観察できる」と口にするものです。根とは身根(身体)を指し、第八識が如何に種子を用いて徐々に身根を生じさせ、眼根・耳根・鼻根・舌根を生じさせるかについては、悟りを開いた後も一阿僧祇劫を修行してようやく僅かに観察できる程度であり、二阿僧祇劫を経て初めて多くを観察できるようになります。器とは宇宙器世間(衆生が生存する空間環境)を指し、第八識が如何に種子を用いて宇宙器世間を生じさせるかについては、悟りを開いた後も一阿僧祇劫修行しても観察できず、二阿僧祇劫を経て初めてある程度観察できるようになります。
界とは十八界(六根・六塵・六識)を指し、第八識が如何に種子を用いて六根と六塵を生じさせるかについては、悟りを開いた後も一阿僧祇劫修行するだけでは観察が困難で、二阿僧祇劫を経て初めてある程度観察できるようになります。第八識が如何に識種子を用いて六識を生じさせるかについては、悟りを開いた後一阿僧祇劫を修行すればある程度観察できますが、完全に具足した観察はできません。しかし如何なる観察ができたとしても、それによって自らの内心が変化せず、身口意行がその観察によって変化しないならば、所謂観察は観察ではなく推測に過ぎません。推測や憶測は全て意識の思惟方法であり、意根が主導する思量には関わりません。推測や憶測した内容には作用力がなく、身口意行を転換させることができず、煩悩や悪業の種子を消滅させることができず、清浄な功徳の受用も生じません。
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