衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2025年01月26日    日曜日     第1 回の開示 合計4319回の開示

意識と意根の智慧の消長

学生の学習段階においては、知識理論を吸収する段階であるため、意識が多く用いられます。学習が終了すると実践段階に入りますが、この段階では理論を実際の操作に応用し、個人の真の力量を発揮する必要があり、この時は意根が多く用いられます。もし意根をうまく活用できなければ、人から「本の虫」や「学者肌」と嘲笑され、学問はあれど才能がなく、真の実力がなく、学んだことが活用できないと見なされます。

学生が幾何学の問題を解く際、明らかに意識を用いて推論しています。結果と答えが存在するため、答えに向かって推論を進めればよいからです。特に集中力のある学生は、意根の思考作用を多少活用することもありますが、それほど多くはありません。もし問題に答えが示されていない場合、意根の思考作用をより多く用いる可能性があり、正しい結論を導き出すことで学生の真の知恵が多少示されるかもしれませんが、意識による推論の要素がより多くを占める可能性も排除できません。幾何学の問題を推論する過程では、一定の原則と法則に従う必要があり、それらに依存すればするほど意識の作用が大きくなり、意根の作用は小さくなり、知恵は浅くなります。

同様に、観行参究の過程において、他人から与えられるヒントが多ければ多いほど、意識が多く用いられ、意根の使用は少なくなり、知恵は浅くなります。もし完全に他人のヒントに頼り、口頭で聞いたことをそのまま受け入れるような場合は、全て意識の作用であり、意根は全く働かず、それ故に意根には全く知恵が育たず、現世でも来世でも解脱の功徳を受けることができません。一方、何のヒントもない状態で完全に自力で参究した場合、最も優れた能力が発揮され、最も深い知恵を得ます。逆に、他人からの助力が大きければ大きいほど、自身の能力は小さくなり、助力なしに問題を解決すれば、全ての知恵は自身のものとなります。独覚仏が山中で独り十二因縁を参究し、法を証得した際の知恵は、阿羅漢が及ぶところではなく、凡夫は言うまでもありません。阿羅漢には仏陀と仏法に依拠する道がありますが、開発される知恵には限界があり、独覚仏の深遠で細やかな知恵には及びません。

外的な縁に依存すればするほど、意根の使用は減少し、能力と知恵は低下します。仏法を学ぶ者の中には、常に様々な助力を求める人がいますが、得る助力が大きいほど開発される知恵は少なくなり、受用も小さくなることを理解していません。問題に遭遇した時、自ら努力し、頭脳を働かせることで得られるものが最大の知恵です。常に法を問うことを好む人は知恵が浅く、自力が不足しており、独立して問題を解決する能力を持ちません。悟りを他人に助けを求める人々がいますが、助けられた悟りは結局誰のものか? それは誰の知恵か? 仏法における知恵も、世俗法における知恵も、全ては自力を得た者のものであり、人に頼るより自分に頼るべきです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

理に基づく比較対照と想像は実証に等しからず

次の記事 次の記事

どのような場合に娑婆世界に留まることを発願することができますか。

ページのトップへ戻る