根・塵・識の三者の作用する処における秘密の如来蔵が内相分を顕現する問題は、法義が非常に深く、深遠なる唯識の理に関わります。例えば、外にある色塵に対して、私たちの眼根は色塵の所まで行っておらず、実質的な色塵に接触していないにもかかわらず、色塵を見ることができるのです。色は眼に届かず、眼は色に届かないのに色を見ることができるというのは、実に不思議なことです。遠くの山を見る場合、その山は私たちの眼根から非常に離れており、眼根が山まで届くことはなく、山も眼元まで来ることはありません。しかしながら私たちはその山を見ることができるのです。これはまことに不可思議であり、ここに唯識の奥義が存在し、種智に関する問題に繋がっています。この奥秘は深く、さらに深いものなのです。
例えば遠方にあるあの山は、誰が顕現したものでしょうか。それは共業の衆生の如来蔵が共同で顕現したものであり、顕現した後は全ての共業衆生の如来蔵が共同でその山を執持しています。外部の山に私たちの如来蔵が参与しているでしょうか。もちろん参与しています。私たちも共業衆生の一人であり、その山を見るということは、その山が私たちと関わりがあることを意味します。私たちの如来蔵もその山の顕現に参与し、その外相分を執持しているのです。
0
+1