内相分についてですが、あの山は地水火風の四大種子で構成されています。私たちが見ようとする時、自身の如来蔵が外にあるあの山と接触し、その山の地水火風の四大微粒子を摂取します。微粒子を摂取した後、それらは私たちの眼根へと伝わり、眼球へ、硝子体へ、視神経へ、そして後頭部の勝義根へと到達します。如来蔵は直ちにこれらの微粒子を内相分の顕色へと変化させます。
外相分のあの山は共業の衆生の如来蔵が共同で執持しています。では、私たちの内相分にある山は何でしょうか?それは私たち自身の如来蔵が外相分に基づいて顕現した影であり、外相分が内相分へと変化したものです。この過程には極めて多くの神秘が含まれており、甚深なる唯識の智慧に関わる問題です。
私たちが見る山にはこれほどの神秘があるのに、山を見る全過程にはさらに多くの神秘があります。如来蔵はどのように外のあの山を執持しているのでしょうか?それは全ての衆生の如来蔵が共同で刹那刹那に四大種子を出力し、共同であの山を変造・執持・変化させているのです。あの山もまた刹那刹那に変化しており、千年万年後には変化し消滅します。「桑田は海となり、海は桑田となる」というのはこの道理です。
大地全体が変化しています。なぜ変化するのでしょうか?衆生の業縁が感召するためです。よって全ての共業衆生の如来蔵は刹那刹那に四大種子を出力し、共同で地水火風で構成された山や水、宇宙器世間などの外相分を変造・維持しています。ここにおける関係は特に複雑で、説明するのは困難です。
個別の衆生の如来蔵がその山に縁する時、如来蔵は衆生自身の業力に相応する四大微粒子を摂取します。衆生の善業が多ければ、顕現する内相分は比較的円満になります。悪業が多ければ、顕現する内相分は劣悪で欠陥があります。各人の業障は異なるため、あの山の四大微粒子を摂取した後、摂取した四大微粒子が異なることにより、顕現する内相分も異なります。内相分もまた衆生の業種・業力に基づいて顕現されるのです。
各人が見る山河大地は皆異なります。同じあの山でも、ある人は美しく見え、ある人は美しく見えません。これは福報・業力・心境などと関連があります。ある阿羅漢が無余涅槃に入った時、彼が参与して顕現していた外相分の山河大地はそれに伴って消失します。しかし衆生は外相分の変化を感じ取れません。外相分の顕現に関与する衆生が余りにも多いため、阿羅漢の如来蔵が自らの全ての四大を回収しても、外相分の変化は顕著ではなく、私たちには感じられないのです。ただ仏陀及び諸大菩薩のみが感じ取ることができます。
如来蔵は色法の種子を持つため、自ら物質色法の顕現に関与し、外相分の山と接触することができます。直接あの山に縁し、四大微粒子を摂取します。摂取後、それらは遮蔽物を透過して眼の浮塵根と勝義根へと伝導されます。従って、私たちが窓越しに外の山を見ると、内相分の山を見ることができるのです。
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