如来蔵が摂取した四大の微粒子はあらゆる境界を貫通することができる。凡夫衆生が神通力を有していない時、四大の微粒子はガラスや透明な物体しか貫通できないが、神通力を有する者は壁やその他の障害物を隔てて遠くの宇宙器世間における色塵を見ることができ、地獄や天宮を含む宇宙器世間全体の物体を見ることができる。天眼通を有する者には障害がなく、その如来蔵はあらゆる外界の色相を物体を隔てて摂取することができる。なぜなら、あらゆる物体はその大きさに関わらず虚妄不実であり、禅定を有すれば虚妄の物体による遮蔽を受けないからである。彼の如来蔵が四大の微粒子を摂取して勝義根に落とし、影像を形成することで、六識が了知・了別することが可能となる。これを天眼通と呼ぶ。我々の外眼根、眼の浮塵根・眼球硝子体は、外界の山および一切の四大で構成された物体の微粒子とも接触可能である。それは如来蔵が摂取した微粒子が眼根に伝達されるためであり、眼根が接触できるのはそのためである。さもなければ眼根は接触できない。微粒子は光子とも呼ばれ、光子は運動する。なぜ運動するのか? 如来蔵が刹那刹那に四大種子を出力し、微粒子すなわち光子を形成するからである。微粒子もまた刹那生滅であり、これが生じあれが滅し、これが滅しあれが生じる。一つの光子また一つの光子という生滅現象が伝達作用を形成する。
微粒子はこのように伝達され、伝達の勢いは次第に微弱となり、伝達エネルギーは減少し、最終的に伝達は停止する。刹那生滅する四大種子によって形成された粒子——光子もまた刹那生滅し、一つの光子が次の光子へとリレーのバトンのように伝わり、眼球硝子体を透過して眼の勝義根に伝達され、色相を形成する。如来蔵がさらに眼識と意識を出生させることで、我々は外界の景物を見ることができるのである。
微粒子は網膜を通過し、後頭部の勝義根において影像を形成する。勝義根に落ちるのであり、勝義根を例えば皿に喩え、伝達されてきた光子微粒子を例えば豆粒に喩えるならば、豆粒が丁度皿の中に落ちることで二者は接触する。根と塵が相触れるのである。四大微粒子が勝義根の中に落ちることで内相分の影像が形成され、この影像が顕色である。色と根が相触れるのであり、ここにどちらが能動的に触れどちらが受動的ではないということはない。これは法爾として然る触の原理である。
そして根塵が一たび相触れると、第八識は相応の識を生じて塵を了別する。意根が落下した色塵に興味を持たない場合、当該の色塵に作意せず、思心所を生起して了別しようとすることもない。第八識は意根に配合せず、眼識と意識を生じて色塵を了別することはない。しかし第一・第二・第三刹那においては、色塵は依然として勝義根に落ち、眼識・意識は依然として了別可能である。意根が興味を持たない時、眼識・意識は可能な限り当該色塵を避け、再び色塵を分別することはなく、また二つの識が当該色塵において滅失して他の色塵へ転向する可能性もある。
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