衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月26日    火曜日     第2 回の開示 合計1295回の開示

ブラックボックスの世界(15)

耳が音を聞く場合も同様であり、一二三の刹那において、音声は耳根に入ろうとする。耳識は無自覚的に音声を聞き、もし意根が聞くべきでないと判断すれば、注意力を転移分散させるか、あるいは識心を滅却して音を聞かなくなる。もちろん意識あるいは耳識が興味を持たず、意根に伝達されれば、意根は聞かないと決定する。その場合、あたかも音声が存在しないかのようになるか、あるいは音声に注意を払わなくなる。これらは全て意根が興味を持つか否か、作意するか否かによる。意根が作意し思心所を生起させると、如来蔵が了知し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を出生させ、内相分の六塵を了別させるのである。

更に顕色というものがある。四大の微粒子が形成する光子が後頭部に形成する顕色は、眼識が分別するものである。この顕色を基盤として再びこれらの微粒子を統合し、如来蔵もまた我々の脳細胞中の四大物質に基づいて統合する。統合された後、形色・表色・無表色が形成される。これを法処所摂色と称し、また法塵ともいう。この法塵は意識心が了別するものである。

もし意根がこの法塵に対して作意し思心所を起こせば、如来蔵は意識を現起させてこの法塵を了別させる。意識は眼識よりわずかに一刹那遅れて出現し、眼識の後に生起する。意識心が眼識よりわずかに一刹那遅れて生起すると言えども、実際この二つの識は我々が感じる限りほぼ同時に生起する。二つの識が刹那刹那に生滅し、同時に色塵を了別するのである。もし意根が作意せず、この法塵を了別しようとしなければ、眼識も現起せず、意識も現起しない。色塵が来たとしても、我々は色を見ることができず、色の存在を知ることがないのである。

——生如法師の開示
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