実はエネルギーというものは存在しない。いわゆるエネルギーとは、四大(地水火風)で構成される物質の微粒子、例えば光子、電子、中子、陽子などの粒子であり、それらは絶えず生滅変化し、次々と生じては消え、連鎖しているため、あたかもエネルギーがあるかのように見える。しかもこれらの粒子は一定の軌道に沿って刹那に生滅変化しており、あたかも物質が軌道に沿って運動しているかのようである。粒子の表面運動の中で、四大種子は絶えず変化しており、私たちがそれを見ると、エネルギーの転換のように感じられる。しかし、その中で如来蔵が果たしている役割については、私たちは知らず見ず、表面の現象だけを知っている。これが無明である。
音という四大の微粒子は壁を貫通し、いくつかの障害物を通過することができる。壁などの障害物はこれらの粒子の伝播や浸透を遮ることができない。これらの微粒子は如来蔵が遠くの音から摂取したものであり、その後、耳根、鼓膜へと伝導され、後頭部の勝義根まで伝わり、まず比較的粗い音を形成する。それが内耳根と相対し、耳識を生じさせ、耳識がその粗い振動現象を分別する。その後、粗い声塵(音の対象)を基盤として、さらに組み合わさって微細な音の法塵を形成し、意根と接触する。如来蔵が意識を生じさせ、その意識によって了別(認識・分別)が行われる。
様々な音の内容、性質、属性、遠近、好悪などの微細な法を法塵という。法塵が形成された後、意根はそれを了別するかどうかを決定する。それは意根がその法塵に興味を持つかどうかによる。興味を持てば了別すると決定し、如来蔵は意識を生起させ、耳識とともに了別する。もし意根が興味を持たなければ、了別せずに避けると決定し、如来蔵は意識を生起させて了別することはなく、耳識も消失し、その音を聞かなくなる。したがって、音は存在しても、私たちはそれを聞くことができない。入定の状態、あるいは他のことに集中している状態、無心の状態などでは、特定の音を聞くことができないのである。
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