その六識はどこに現れるのでしょうか。もちろん、根と塵が触れ合うところである勝義根の後頭部に現れます。識心は形も相もなく、具体的な場所もなく、色身の内外や中間には存在しませんが、如来蔵は識の種子を根と塵が触れ合うところの勝義根に送り込みます。すると六識はこのブラックボックスの中で広大な空や浩瀚な宇宙の器世間を分別し、色身の中の一切の法を分別します。後頭部の内相分の六塵境界こそが、私たちの心が遊翔する全世界です。これ以外にも多くの法塵がありますが、それは第七識が接触する内容です。六識には無明の障りがあるため、制限を受けるときには、これらの内容しか了別できず、あるいはこれらの内容のごく一部しか了別できず、また了別が不明瞭なこともあります。これこそが哀れな無明の衆生の果報なのです。
したがって、私たちの六識が分別・了別する一切の活動はすべて後頭部で行われています。たとえ身体の足の指先の触塵であっても、それは後頭部の勝義根に伝導されます。身識と意識もまた、後頭部にある足の指の状態を了別するのであり、勝義根の外にある足の指を直接了別することはできません。勝義根のブラックボックスこそが、六識が了別する全世界なのです。もし私たちがこの点を観行できれば、根がいかに虚妄であり、塵がいかに虚妄であり、識がいかに虚妄であるかを知ることができます。どれが刹那生滅しないものがあるでしょうか。すべてが刹那生滅なのです。根は四大の組み合わせであり、刹那刹那に生滅します。塵は四大の組み合わせであり、さらに刹那刹那に生滅します。識については、一つの識の種子が生じては滅し、滅しては生じ、これまた刹那生滅です。生滅しないものなどあるでしょうか。この世間の万法はすべて生滅なのです。
外界の山河大地、色塵・声塵・味塵・香塵・触塵などの外相分は、すべての衆生の如来蔵が共同で出生・変現・維持しているものです。私たちの如来蔵がその外相分を縁とするとき、私たちの如来蔵は外相分上の四大を摂取します。摂取すると微粒子が形成され、光子となり、ずっと伝導されてきます。五根の浮塵根と伝導神経を通って勝義根に伝導され、そこで根と塵が触れ合います。如来蔵が六識を出生し、外界の山河大地の影を了別します。そして、これらの影を真実の外法と見なし、あらゆる執着をし、際限なく分別を繰り返すのです。
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