仏法の実証は比量に依るのではなく、現量観察に依るのである。推理や推測、推論に頼るのでもなく、研究に頼るのでもなく、禅定中の観行と参究に依るのである。そうして得られた結論こそが現量であり、信頼できるものであり、真理を発見し、真理を証得し、それによって真実の受用を得て、疑いを断ち信心を生じさせるのである。
いわゆる比量は推測に類似しており、推測が正しい時は多くなく、正しく推測できる割合は高くない。たとえ推測が正しくとも、現量観察に等しいわけではない。例えば、山の向こうから煙が上がっているのを見て、比量によって推測・推論し、山の向こうで必ず火事が起こっていると考えるが、実際には火事とは限らず、湿った草を燻しているのかもしれず、必ずしも火の手が上がるとは限らない。また、女性が妊娠しているのを見て、必ず淫欲を経て妊娠したのだと考えるが、実際には高い禅定を得た者は淫欲を経ずに胎に入ることができ、五祖の転生がまさにそうであったように、唐や宋の時代にも禅定の高い禅師たちが同様に転生している例がある。
さらに極めて多くの例が、比量が現量に等しくないことを示している。比量は完全に意識の理解、意識の比類、意識の推理、意識の推測に依存しており、意識が少し賢ければ誰でもできることで、これは難しいことではない。世の中には小賢しい者は数多いが、難しいのは現量観察であり、これこそが無数の人々が修行して解脱を求めながらも、真に解脱する者は鳳毛麟角のごとく稀であり、真の聖賢は永遠に極めて少数派であり、聖と凡は比例しない所以である。
推測・推理によって導き出された結論は、実証に等しくない。たとえ推論が正しく、たまたま事実と合致したとしても、疑いを断つことはできず、解脱の功徳による受用はない。例えば凡夫衆生は皆、自分の五蘊十八界が真実の我であると考えており、表面的にはどの凡夫衆生も疑いを持たず、確信しているように見える。しかしもし衆生が本当にこの点を確信しているのなら、なぜ仏陀が五蘊無我を開示すると、一部の衆生は疑いを生じ、さらに禅定を修め観行し四聖諦の理を参究して、ついに疑いを断ち、以前の認識が誤りであったことを証明するのであろうか? これを見れば、衆生のいわゆる確信不疑も信頼できないものであり、さもなければ仏陀はどうやって衆生を救済できようか? 同様に、多くの人々の意識による推理・推論や研究も、心の中では疑いが断たれておらず、いずれ自ら導き出した結論を覆し、真の実証に至るのである。
また例えば科学者は様々な科学的手法による研究を経て結論を導き出すが、この結論はたとえ全ての人が同意したとしても、必ずしも事実とは限らず、真実とは限らない。そうでなければ、後の科学者がより現代的な科学技術を用いて以前の科学者の結論を覆すことはないであろう。もし科学者の推論・研究が全て正しく誤りがなく、全て事実に合致するのであれば、科学者は仏陀と全く同じく大いなる智慧を持ち、宇宙の真相が何であるかを完全に探求し、世間法の実質が何であるかを知り、その結論は仏陀の聖教に背くはずがなく、皆が仏法における聖賢となり、衆生の導師となるはずである。しかし事実はそうではなく、彼らは深重な無明を抱え、依然として完全な凡夫であり、法界の実相が何であるかを知らないのである。
このことからも、推理・推論・研究などの比量的手法は、仏法修行の中で用いることはできず、仏法を実証する手段として扱うことはできないことが分かる。推理によって導き出された結果は、たとえ自らが強く信受していても真の信受ではなく、意根に疑いが潜んで決断できず、自らも気づかないのである。命終の時には明らかになるが、その時に再び立ち返るのは間に合うであろうか?
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