衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月03日    日曜日     第1 回の開示 合計1305回の開示

意根と如来蔵は一切の法を統べ摂る。如来蔵がどのような法を顕現するかによって、意根はその法を縁とし、領納し、了別することができる。全ての色・声・香・味・触・法という六塵の境界、身根の境界、五根・五塵・法処所摂色という十一種の色法には、全て一つの「知」が了別している。この「知」とは何か。究極的には証得されるものである。修行が一定の境地に至れば、一切の法が全て如来蔵の機能作用であることを証得し、如来蔵こそが真の我であると悟るのである。成仏の時、如来蔵は真実の常楽我浄の我となる。これらの虚妄の機能作用は五陰の我の働きではなく、全て如来蔵が顕現したものであり、如来蔵の機能作用そのものである。

例えば盲人が道を歩く時、路面が見えないので杖を使う。杖を前方に突き出して石に触れると、意識心は硬さを感じる。たとえ石と認識しなくとも、杖が石に触れた時、目で見ず身体で触れずとも、前方に障害物があることを知り、避けようとする。目が見えなくても、石や硬い物、躓く物を認識できるのである。

つまり硬さを知り、石を知り、色塵や触塵を了別するのに、必ずしも目で見る必要はなく、身体で触れる必要もない。他の了別方法が存在し、これらには大いなる秘密が関わっている。例えば盲導犬を連れた盲人は、盲導犬が前方の障害を察知して方向を変えると、それに導かれて進路を変える。目で路面を見ずとも、前後左右の方向を知ることができる。この「知」は不思議である。五識を使わずとも知ることができる。これらの機能を開発すれば、六根は互いに通じ合い活用し合うのである。

また目を閉じれば外色は見えないが、暗闇を見る。暗闇も色の一種である。長時間目を閉じると暗さを感じなくなり、光の色が見え始める。禅定のない者は様々な色を見、禅定ある者は最初赤色、次に金紅色、最後は淡黄色を見る。さらに進むと光色はより淡く明るくなる。眼識が現前しなくとも、目を閉じたまま眼前の色を見る。この見性は誰の見性であろうか。

これらの機能作用が示すのは、表面の虚妄な機能の背後に、真実の不壊不滅の徳能力用が存在し、一切の法を統べ摂っていることである。五根を使わずとも、見聞覚知の六根作用を有することができる。究極的にはこれら全てが如来蔵の機能作用である。六根の機能作用を我と認めず、その執着を次第に離れる時、本来具わる智慧徳能が顕現し光明を放つ。これらの機能作用が全て開発顕現すれば、一切の法に何ら障害なく、もはや秘密など存在しなくなるのである。

——生如法師の開示
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