眼識と意識が見る内相分の景色は、絶えず変化しています。眼識と意識がそれを識別すると、意識心はこれらの景色とその変化を実在のものと錯覚します。実際、これらの影像は外界の相対的に真実な景色と一致しており、ほとんど同一です。私たちは真偽や内外の区別がつきません。立体の球体スクリーン映画のように、スクリーン上の人物や事物も現実のように感じられます。画面中の人物が刀を持って近づいてくると、無意識に避けようとしますが、冷静に比量すればこれは真実でないと気付き、元の位置に座って映画を見続けます。スクリーン中の車が近づいてきても、やはり反射的に避けようとするのは、意根が相に執着する習気によるもので、意識心の冷静な分析や比較では大きな作用を及ぼし得ません。
ブラックボックス内の内相分影像も、球体スクリーン映画のように立体であるため、非常にリアルに感じられます。テレビで緊迫した場面が映ると、私たちは真に受けてしまいます。例えば人が追いかけられる場面では心配になり、緊急時には拳を握り冷汗をかき、身体が緊張します。演劇と知りつつも感情移入してしまうのです。まして日常生活では、接触する一切の法がブラックボックス内の影であることを知らないため、なおさら真実と受け止めてしまいます。
ある場所から別の場所へ移動する間、耳根が聞く音声は全てブラックボックス内の音です。これらの音は絶えず変化し続けます。なぜ変化するのでしょうか。外界の声塵も不断に変化しているからです。外界の声塵の存在は内影像と比べれば相対的に真実ですが、絶対的真実法は如来蔵のみです。外界の各所には人や家畜、車馬、風音、様々な物体の発する音が存在し、私たちが移動する度に、これらの音は耳根を通じて不断に勝義根に伝わり影像を形成します。外界の色塵が変化すれば、内界の影像もそれに従って変化します。
私たちは音を聞くと、この場所にはこのような音が、あの場所にはあのような音があると認識し、これらの音が非常に真実に感じられ、音の伝来方向も現実的だと感じます。南から来る風音、北からの話し声、東からの車の音、西からの犬の鳴き声を識別します。ある場所では全ての声塵が伝来し、別の場所に移動すればまた新たな声塵が接触し、絶えず変化していきます。
外界の声塵は必然的に次々と現れ続け、私たちの耳根はそれらを一つずつ、あるいは同時に縁取ります。縁取られると、如来蔵はブラックボックス内に内相分の声塵を顕現させ、方位や細かな程度まで外界とほぼ同一に再現します。意識は自らが聞く音を外界の某所の音と思い込み、この錯覚が意根に熏習され、意根は真実の音を聞いたと錯覚します。これらの音を真実と信じた意根は、意識に種々の分別計較をさせ、絶えず身口意の業行を造作させ続けます。
法塵の境界は声塵の境界よりもはるかに多く、意識の了別は耳識の了別を大きく超えます。意識心の了別がなければ、耳識は声塵を了別できず、両者は相互依存関係にあります。私たちが聞く音は全てブラックボックス内に存在し、道中の車馬人畜の音、宇宙の音、動物の声、風音、人の話し声など、全て如来蔵が外界の声塵から伝導したものです。これによってブラックボックス内の内声塵が形成され、私たちが了別するのはブラックボックス内のこれらの音声全てなのです。
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