衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月05日    火曜日     第2開示 合計1310開示

ブラックボックスの世界(三十四)

私たちはあらゆる法に触れているかのようであり、次々と風景を見ているかのようであり、一つの音を聞き、また別の音を聞いているかのようである。一つの花の香り、そして空気中に漂う様々な匂いを嗅いでいるかのようであり、一筋また一筋の陽光を感じ、ほんのわずかな微風のそよぎを感じているかのようである。様々な境界が次々と絶え間なく変化しているが、実はその変化の仕方に関わらず、千変万化するものは全てブラックボックスの中の映像に過ぎない。

外側の相対的に実在する境界に変化は起きただろうか?外側の境界もまた絶え間なく変化している。一つの色塵が次々と現れ続け、一つの音が次々と現れ続け、一つの匂いがまた別の匂いが絶えず鼻をついてくる。外の境界が絶えず変化するため、内の境界もそれに伴って変化し、六識は絶えず接触し、了別し、感受し続ける。六識が識別了別するのはこれらの二次的に変現された境界に他ならない。したがって、ブラックボックスの中の内映像は外界のあたかも実在する相に基づいており、外相分がなければ内相分は存在しないのである。

外相分の情景は必ず変化するが、ただ私たちの身根である五根がそれを縁として捉えられるかどうかである。例えば、ある場所には確かに外色塵としての山が存在するが、私たちの眼根はその山に全く接触できず、その山と実際に触れ合うことができず、その山もまた眼根の中にやってくることはできない。それにもかかわらず、私たちはその山を見ることができる。このことは実に奇妙なことだと言える。

同様に、声塵が遠く離れた場所で鳴り響く、例えば雷鳴や鳥の鳴き声など、これらの音は耳根に近づくこともないのに、雷鳴や鳥の鳴き声をはっきりと聞くことができる。これもまた奇妙なことである。忉利天の頂上に円く懸かる太陽は、私たちの身体とははるかに遠く離れているが、私たちの身根は常に太陽の光輝が照らし触れるのを感じることができる。これは実に不可思議なことである。遠く離れた栴檀香は、私たちの鼻根からはるかに遠く離れているが、それでも私たちの鼻識は栴檀香の香りを嗅ぎ取ることができる。これもまた不可思議である。五根は実際の外五塵に接触しているわけではないのに、五識は五塵を了別することができる。これらの事柄は何を示しているのだろうか?それは、私たちの六識が接触し了別しているものは、全て如来蔵が外五塵に基づいて変現した内五塵であり、外五塵の映像であり、ブラックボックスの中の影であり、真実の境界相ではなく、如来蔵によって二次的に虚妄に作り出された仮の相であることを示しているのである。

——生如法師の開示
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