意根の慧力と念力は、必ず定力と分かち難く結びついており、この三者は決して分離し得ません。命終時・中有期・転生後の一切は、意根の慧力に依拠します。意根の慧力が優れていれば、念力もまた優れ、臨終には意根の念力によって転生し、来世の命運を決定します。意根の念力は業力に相当し、もし意根の善願が強ければ正念も強く、修行によって悪業の力を転換し善業が悪業を超えたことを示します。反対に意根の悪念が強ければ悪業も強く、その者は修行が不十分で、臨終と転生時に強者に引きずられるのです。意根が仏法を証得していなければ、臨終と転生時には聖人ではなく凡夫のままであり、凡夫の命運に従って生死流転します。意根の智慧を強化せず、意根の智慧に依らなければ、一生をかけた修行も功徳を発揮できません。
例えば仏を憶念し念仏することは正念です。臨終時に意識が弱り念仏を思い出せない場合、あるいは念仏する力がなく、もし念仏が意根に熏習されず、意根が念仏の習慣を養っていなければ、意根は念仏を知らず、この時仏と相応せず、仏の来迎を感得できず、業に随って漂泊し生死を流転します。結果として一生念仏しても僅かな種子を残すのみで、命終時に作用を発揮しません。意識のみを捉える者が深く修学しなければ、果報はこのようなものなのです。
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