私たちが気絶させられた時、見聞覚知の性がなくなると、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも分別することもできず、一切の法を知ることができなくなります。しかし、あの花は依然として存在しており、他の人は見ることができます。外界の風の音や雨音は依然として存在しており、他の人は聞くことができます。外の花の香りは他の人が嗅ぐことができ、外の美食は他の人が味わうことができ、外の暖かい日光は他の人が感じることができ、彼らは皆自分自身の内相分を感知することができます。死や入定、眠っている時も同様です。私たちが花を見る時、美しい花は私たちを魅了しようとする心を持っているわけではなく、私たち自身の七つの識がそれを分別し、考え、判断し、観賞しようとし、それによって好き嫌いの心が生じるのです。同様に、天地の万法は私たちに喜怒哀楽の心を起こさせるわけではなく、私たちの妄心が自ら万物に執着を生じさせるのです。酒には人を酔わせようとする心はなく、飲む者が自ら酒量に勝てず、自ら酔うに過ぎません。
外界の境界には私たちを惑わす心はなく、境界が私たちの心に現れるのも影のようなものであり、私たち自身の七識の心が動き、どうしてもそれを分別しようとして様々な念や感情が生じ、自ら心を平穏に保てず、自ら煩悩を生み出します。そしてこれらの識は、もし第八識がそれらに識種を送らなければ存在することもできず、識種を送った後、いくつかの心は活発に動き回り、様々な分別、様々な知見、様々な感情が生じ、身口意による様々な行為の造作が生まれます。まるで影絵芝居のように、誰かがその糸を引っ張ると、人形が芝居をすることができます。いくつかの識心もまた同様で、非常に不実在です。ここから、私たちの識心がどれほど虚妄であり、私たちの五蘊がどれほど虚妄で不実在であるかがわかります。それらはただ第八識心の表面上で騒ぎ回っているに過ぎません。ですから、私たちが相を見る時、相は虚妄であり、見ることも虚妄であり、見相という事実は存在せず、病める目が空華を見るようなものに過ぎません。同胞の皆様に真実と虚偽を見極め、もはや迷い執着することなく、自性に回帰し、一日も早く大解脱を得られるようお勧めします!
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