六塵を知ったとき、六塵は心に現れた相であり、物を見るならば心を見るべきである。もし心がなければ物もなく、物は心中の物であり、心の外に物はない。目で花を見るとき、第八識が眼根を通じて花に接触し、花の影を変現する。鏡が像を映すように、後頭部のブラックボックスで花の影を現出させる。そして内眼根が花の影塵と接触し、意根が花上の法塵と接触する。第八識はこれに依って眼識と意識を生じ出し、二つの識心が花の影を分別する。影は私たちの眼根が対する外界の花と全く同じであり、私たちは自分が見ているのは外の花だと思うが、実はそうではなく、全てブラックボックス内の影塵である。
では花や他の物質を見るとき、これらの物の景象は私たちの眼識・意識・意根・第八識が共同で和合して現出したものであると知るべきである。この時、物を見る中でどれが眼識か、どれが意識か、どれが意根か、どれが第八識かを反観すべきである。こうして心は物に通じ、物も心と相通ずる。そして外界の真の花は、共業の衆生の第八識が和合して現出したものであり、同様に仮のものであり、虚妄である。全て共業の衆生の持つ第八識中の四大種子に依存して現出し、全ての第八識が共同で花を執持している。同様に、私たちが聞く音声、嗅ぐ香臭、味わう酸甘苦辛味なども全て同様である。
(注:以下の専門用語は仏教唯識学の標準訳語に基づき厳密に対応) ・六尘 → 六境(ろっきょう) ・第八识 → 阿頼耶識(あらやしき) ・眼根 → 眼根(げんこん) ・意根 → 意根(いこん) ・法尘 → 法境(ほうきょう) ・眼识 → 眼識(げんしき) ・意识 → 意識(いしき) ・四大种子 → 四大種(しだいしゅ)
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