衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月09日    土曜日     第5 回の開示 合計1325回の開示

参究話頭:いかにして豚は死んだのか

六識が縁する一切は全て内相分の幻境であるため、人が豚を殺す場合も外境の豚に根本接触していない。では、豚はどうして死んだのでしょうか?これは秘密であり、大秘密でもある。自分で参究する必要があり、一旦参究出来れば智慧は非常に了不起となる。六識が接触するのは内相分の豚であるが、外相分の豚は死んだ。どうして死んだのでしょうか?参究出来れば開悟となり、定力がない場合は参究できない。真に開悟していないなら、この問題も解答できない。真悟と假悟を判断するには多くの公案話頭で拷問でき、答不出来れば、自分で自分の悟を掂量掂量する必要がある。究竟どう悟したのか、悟したものは何であるか。

目が自分の手を見ても、真の手に接触していない。手で自分の頭を摸しても、真の頭に接触していない;自分の話を聞いても、真の声に接触していない;自分の体味を嗅いても、真の体味に接触していない。何況他の众生や他の色声香味触に接触することも真に接触できない。苹果を食べる場合、本来食べるのは内相分であるが、外相分の苹果はなくなった。他人が食べなかったら、不愉快になる。

心が意念する独影境は完全に自分の如来藏が变现した内相分であり、他人に関係ない。例えば某人の身体健康を意念すれば、外相分の某人の身体は真に健康になった。これは怎么回事であるか?豚を殺す意念で定力が良いなら、豚も殺される。これは怎么回事であるか?

有人说只要一脚を踹すれば、当下に悟する。しかし、この一脚は少なくとも四つの識が共同和合运作する。どうして四つの識の各自の功能作用を分清楚するのか?このような悟は鹦鹉学舌と无异であり、悟个意识心でもこのような公案があり、何稀奇であるか?

当年雪峰禅师は多くの開悟した善知识を参訪し、德山禅师の座下で几十年参究した後、最終開悟した。香岩禅师は师父の座下で十八年服侍しても開悟していない、最後一人が一座破庙で隐居参禅し、石を竹に打到後、最終開悟した。菏泽神会和尚は終其一生も解悟のみであった。古代の人善根深厚であり、禅定功夫良い、参禅も那样的辛苦であった。衣带漸解人憔悴となり、蒲团坐破几十个。如今の人善根は古代人より远远不如であり、禅定更差、人格就不用说了。どうして自分が轻而易举で開悟を希望するのか?这么容易悟すれば、悟出ものは何であるか?佛法を猜测すれば、猜测を允许し、猜测出来もできるが、毕竟猜测と呼ばれ、证悟ではない。

——生如法師の開示
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