衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月09日    土曜日     第6開示 合計1326開示

参禅は推理や推測ではありません

参禅には菩薩の六波羅蜜を具足し、三十七道品をすべて修め終える必要があり、特に未到地定を具足していなければならない。この時に参禅し、因縁が具足した時に初めて証悟できる。そうでなければ、理論に過ぎないか推理による推測であり、たとえ結果が合理的であっても解脱の功徳を享受できず、三つの束縛の結びを断つことができず、第八識の働きをありのままに観行することはできない。

推理によって得られた結果では、五蘊は滅せず、心の働きは空にならず、煩悩は相変わらずである。もし慢心がさらに加われば、煩悩は以前より増大する。いわゆる聖人の中にも煩悩が以前より強い者が少なくないのは、心に二つの自我が存在するからであり、すべて禅定がなく、辛苦を伴う参究の過程を経ていないためである。心の働きが密かに転換・降伏されず、心に突然結果が現れると、慢心が生じ、煩悩が増加する。

大乗の果であれ小乗の果であれ、この果自体が最も重要なのではなく、最も重要なのは、果が現れた時に自らの心をどれほど動かしたか、多かれ少なかれ自らを変えられたか、その変化の程度はどうか、今後も永遠にこの果の恩恵を受け続けられるか、この起点から確かな光明の解脱の道へと踏み出せるかである。最大の利益を得るためには、果を得る方法・経路・過程を重視すべきであり、過程は証拠を集める辛苦の程度を表す。辛苦が大きければ大きいほど、得た時に甘美さを感じ、より大切に思い、心はより堅固で軽安自在・無我となり、退転することはない。投入が大きければ大きいほど収穫も大きく、容易に果を得て努力を要しないほど、無我の覚受はかすかで、生死の束縛を断つことができず、解脱を得るのはより困難である。

——生如法師の開示
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