如春:楞厳咒を非常に速く唱えると、私も一種の無我の境地に入ることがあります。まるで両方の唇だけがぱくぱく動いているように感じられ、目をわずかに眇(すが)めれば十分で、意識が完全に文字を見極めるのを待たずに、口がその一行を滑らせてしまうのです。その感覚も非常に興味深いものです。
師父:非常に速いことも一種の定(じょう)です。雑念が入る時間がなく、非常に専一ですが、気を消耗するため長時間は持続できません。このような状態は、咒文がすでに非常に馴染み、ほぼ暗誦できる程度に達しているため、意識を過度に使って読み取る必要がなくなるからです。意識で咒文を読むのは速度が比較的遅く、一字一句を目で追う必要があり、極端に速くはできません。一方、意根(いこん)が咒文を記憶すると、ほぼ自動再生できるようになり、意識が文字を見極めるのが追いつかないほど速度が速くなります。これは意根の記憶の功徳(くどく)です。
如春:確かに気を消耗します。長く続けると力が不足し、心を集中できなくなり、気が散り始めます。おそらく慣れてしまったため、一字一句ゆっくり唱えるのがあまり好きではなくなっているのでしょう。
師父:経文や咒語を暗誦できるようになったら、意念(いねん)、つまり意根で念じることを学ばねばなりません。経文や咒語が脳裏を流れますが、言語や文字、音声は伴わず、音もなく暗誦するのです。そうすれば、定に入るのが非常に速く深くなります。一字一句唱えたくないというのは、意根がそれを望まないからです。唱えるという行為は、意識が読みながら発声するものです。速度に関してはやはり意根が最も速く、言語や文字、音声を用いず、心念が一瞬で完了します。だからこそ、意根は最も鋭敏な識心(しきしん)だと言われるのです。
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