六塵の境界は第八識が顕現したものであり、第八識の四大種子は絶えず六塵の境界の上で刹那刹那に生じては戻り、第八識は刹那刹那に六塵を執持して維持しており、一瞬も分かたれることがない。これほど密接に接触しているのに、どうして第八識が六塵の境界を了別しないことがあろうか。もし第八識が六塵の境界を了別しないならば、どうして刹那に六塵を変化させ、どうして六塵に絶えず様々な変化を生じさせることができようか。
第八識が六塵の境界を了別するのは、コンピューターがプログラムを了別するのと同じであり、ロボットが指令を了別するのと同じである。了別するが分別はしない。了別とは知ること、分別とは具体的にどうであるかを知ることである。第八識は六塵の境界を了別するが東西南北中を知らず、六塵の善悪美醜是非曲直を知らず、六塵が何であるかを知らない。それゆえ第八識は六塵に対面しても如如不動で、心を動かし念を生ぜず、情緒もなく、受もなく、心行もなく、業行を造らず、業行がなければ果報もない。第八識は木のように無情であるがゆえに捨受であり、捨受であるがゆえに心の地が清浄で、無欲無求無所作為であり、いかなる願力も願行もない。それゆえに無為法と言うのである。
七識が六塵の境界に対面する時、どのような表現を示すか。執取、貪愛、厭悪、怨恨などである。七識が六塵の境界に対面する時の表現から、多くの場合が捨受ではなく、情緒が激烈で異常であり、内心が猿のように騒がしいことがわかる。なぜそうなるのか。七識は善悪是非曲直を知り、自己に対する利害得失を知り、損益を知る。七識の心中には我があり、必ず我を出発点として事物を見なければならず、必ず自己の利益を守らなければならず、必ず喜怒哀楽の思想情緒がある。境界に対面して心情が平静でないならば、それは捨受ではない。もし捨受であるならば、心境は穏やかであり、心行は無為であり、境界がどうであろうと構わず、どうでもよいのである。
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