楞厳経において仏は、衆生に五蘊の世間が現れていない時には、ただ意根と如来蔵が杳杳冥冥の状態にあって、ぼんやりとして天の高さや地の厚さを知らないと説かれている。意根は愚痴無明であるが、六識五蘊の働きがないため、意根は何の業行も造ることができず、したがって善悪の業およびその果報も存在しない。これが意根の無記性である。
衆生の五蘊身が現れたとき、意根がたとえ善悪の心行を持ち、不善不悪の心行を持っていても、六根が互いに通じ合い用いることができないとき、それ自体では何も造り出すことができず、ただ六識を通して自らの考えを実現し、自らの心行を満たすことしかできない。したがって意根のすべての心行は無記業に属し、果報を持たない。衆生に果報が現れるのは、意根が六識の身口意行を通して自らの心行を実現し、身口意行為の記録が存在し、業種が蓄積され、業種が送り出されることによって初めて果報が生じるからである。
六識の不善不悪なる無記業の中において、もし喜楽心や貪愛心が生じれば、それは生死の結縛となり、生死の中に縛られることになる。これが果報である。たとえ六識に貪愛や瞋恚がなくとも、その不善不悪なる無記業は業種として如来蔵に蓄えられる。業種がある限り果報が存在する。仏菩薩がこの世に来て造る善業や無記業の中には貪愛も喜楽心もないため、生死の結縛が存在せず、仏菩薩を六道の生死に縛ることはない。同じことを行うにしても、ある人は心あり、ある人は心なし、果報は異なるのである。
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