天人は河を瑠璃と見、人は河を水と見、餓鬼は河を烈火と見ます。同じ一条の河でありながら、三者が見るものはそれぞれ異なります。三類の衆生は皆その河の現れに参与しており、各自の業種が異なるため、持分も異なります。それゆえ持分に応じて配当を抽むれば、各人の得るもの、見るものも異なるのです。よって穢れた娑婆世界とは、衆生の立場から言うものであり、釈迦仏の立場に立てば、娑婆世界は極楽世界と全く変わらぬ厳かな姿を呈します。これは維摩経に説かれるところです。これはつまり、仏が参与して現す世界において、仏が出力する業種が極めて殊勝であるため、感得する外相分と内相分が衆生とは大きく異なることを示しています。ちょうど合弁会社のように、持分が異なれば分かち得る利益も異なるのです。
仏においては、外相分と内相分が完全に一致します。仏が見る娑婆世界は極楽世界と全く同じであり、仏が接触する娑婆世界の外相分もまたそのように美しく厳かなのです。同じく娑婆世界に住みながら、仏の衣には決して塵が付かず、身体皮膚にも塵が付きません。塵は心の無明を表しますが、仏には無明が無いため、塵を感得することがないのです。
勝義根を有する衆生のみが内相分を持ちます。勝義根が無ければ内相分は存在せず、肉眼はあれど神通の無い者こそが内相分を了別し得ます。天眼や神通を有する者は必ずしも内相分を了別する必要がなく、六根が互いに通じ合い用いる者も内相分を了別しません。俱解脱の阿羅漢や八地の大菩薩たちは、六塵の境界を了別するに当たり、六識を用いず直接意根で了別するため、了別するのはもはや内相分ではありません。無色界の天人は色身を持たないため勝義根が無く、内六塵も存在せず、彼らが了別する法塵は内法塵の了別ではないのです。
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