衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年03月12日    火曜日     第3開示 合計1335開示

ブラックボックスの世界(四十八)

天人は河を琉璃と見なし、人は河を水と見なし、餓鬼は河を烈火と見る。同じ一条の河であるにもかかわらず、三者が見るものはそれぞれ異なる。三類の衆生は皆その河流の現れに参与しており、各自の業種が異なるため、株式の持ち分も異なり、そうすると持ち分に応じて配当を抽むれば、各人の得るもの、見るものも異なる。したがって、穢れた娑婆世界というのは、衆生の立場から言うのであり、釈迦仏の立場から見れば、娑婆世界は極めて荘厳であり、極楽世界と二つとないものである。これは『維摩経』に説かれていることである。これは、仏が参与して現出する世界において、仏が出力する業種が極めて殊勝であるため、感得する外分相と内分相が衆生とは大きく異なることを示しており、まるで合弁会社のようなもので、持ち分が異なれば、得られる利益も異なるのである。

仏のところでは、外分相と内分相は完全に一致しており、仏が見る娑婆世界は極楽世界と全く同じである。したがって、仏が接触する娑婆世界の外分相もまた、そのように美しく荘厳である。同じく娑婆世界に住んでいても、仏の衣には決して塵が付かず、身体や皮膚にも塵が付かない。塵は心の無明を表しており、仏には無明がないため、塵を感得することもないのである。

勝義根を持つ衆生のみが内分相を持つ。もし勝義根がなければ、内分相は存在しない。肉眼はあるが神通のない人々のみが、内分相を了別できる。天眼や神通を持つ人々は、必ずしも内分相を了別する必要はなく、六根が互いに通じ合い互いに用いる人々は、内分相を了別する必要がない。倶解脱の阿罗汉や八地の大菩薩たちは、六塵の境界を了別する際に、必ずしも六識で了別する必要はなく、直接に意根で了別するため、了別するのはもはや内分相ではない。無色界の天人は色身を持たないため、勝義根がなく、内六塵も存在しない。彼らが法塵を了別するのは、内法塵を了別するのではなくなる。

——生如法師の開示
前へ前へ

ブラックボックスの世界(四十七)

次へ 次へ

ブラックボックス世界(四十九)

ページトップへ戻る