漠然とした力が自分に起心動念を強いるように感じられ、それから妄念が生じる。ここにはどんな奥義があるのだろうか。感じるのは意識心の感覚であり、漠然とした力は意根のものである。神様は作意と攀縁法塵を行い、思心所を生じさせ、第八識は意根の思心所に随順して意識を出生させ、意識が法塵を了別すると念頭が現れる。
意識の念頭は、境界に触れ、境界を知ってこそあるものであり、境界を分別した結果である。この境界は意根も縁ずる。さもなければ意識を生じさせることができない。このとき意根と意識は同じ境界を縁じるが、意根は具体的に分別することができず、意識によって分別するしかない。それならば、意根はこの境界に対して作意・触・受・想・思を行い、かつ微弱な了別慧を持つ。そのうち作意は理解しやすく、触も理解しやすい。受は受け入れて領納することであり、これも理解しやすい。想とは執取 (upādāna)して相を取ることであり、これも理解しやすい。最後の思には、抉択し、決定して造作するという意味があり、さらに思量 (manasikāra/manana)して秤にかけるという意味もある。その中で具体的にどのような心行であるのかは、比較的理解しにくい。意根の思は最も神秘的なものである。
<h2 style="text-indent: 2em;">意根が了別する際には五遍行と五別境の心所法が参与する</h2>意根の別境慧は常に現前するものではない(仏および何地かの菩薩の意根は除く)。個別の時にしか現起しないので、別境と呼ばれるのである。一方、五遍行の心所法は常に現起しなければならず、意根の助伴であり、刹那刹那に意根に伴って運行している。意根の運行とはすなわち心所法の運行であり、意根が存在していながら五遍行の心所法が運行していない時を見出すことはできない。
執取 (upādāna)は想心所の機能であり、その作用は相を了別し、相を取ることであり、それから相のために名を安んじて、名ができれば名言が現れ、相と名を承認する。意根が相を取った後でこそ、思量 (manasikāra/manana)してどのように造作するかを決定することができる。もちろん五遍行の心所法は反復して運行し、最後にこそ一つの総決定を下すことができ、その後にこそ行動を取ることができる。だから、人が優柔不断であるのを見ると、意識と意根が思量 (manasikāra/manana)し、絶えず作意・触・受・想・思を行い、心所法が順番に運行し、五別境の心所法も運行に参与しており、きわめて複雑であることがわかる。だから、人の脳はコンピュータより無数倍も複雑であり、コンピュータは人間の脳と比較にならない。いわゆる脳とは、主に意根の機能作用を指し、六識はその次である。
2
+1