原文:その時、世尊は食時に衣を着て鉢を持ち、舎衛大城に入りて乞食す。その城中に於いて次第に乞い已り、還って本処に至る。飯食を訖えて衣鉢を収め、足を洗い已りて座を敷きて坐す。
解釈:続いて述べられる事柄は密義であり、かつ極めて大いなる秘密である。すべての大乗修行者が知りたいと願うところのものである。もし真に知るならば、もはや秘密ではない。次の事柄とは「世尊が食時に衣を着て鉢を持ち舎衛大城に入り乞食し、次第に乞い終えて本処に戻り、食事を終えて衣鉢を収め、足を洗い終えて座を敷き坐した」という経文である。これが何を意味するのか。煩雑に思われる日常の瑣事、世尊の日々のありふれた行為を記述しているが、なぜ経文の冒頭に特に記され、他の経典では述べられず、まさに金剛経を説く際に描写され、大般若経の法会において提示されるのか。金剛経は大般若経の精髄であり、世尊は無意味な瑣事を説かれることはない。特殊な因縁なくしては微笑みさえ容易に示されない。
ここに極めて深遠な奥義が示され、真理を顕現し、諸法の実相を照らしている。最上根の利智ある者はここを読むだけで真理と実相を悟り、金剛経および六百巻に及ぶ大般若経の宗旨を貫徹し、真実義の菩薩となる。華厳経に「一切の法は唯心によって造られる」とあるが、これは如来蔵心によって造られることを意味する。世尊の日常の瑣事もまた万法の一部ではないか。そこに世尊の真如心の働きは存在しないか。答えは当然肯定である。万法は真妄和合によって生じ、真心のみでは何も成し得ず、妄心のみでも成立しない。真妄和合によって共同で万法を顕現する。故に我々の無常なる生滅の幻影の現象界の中に、必ず般若の真心が働いている。
例えば我々の日常の飲食排泄、言語動作、行住坐臥など、これらすべてに同時に真心如来蔵の参与がなければ、一法も成立しない。禅宗の千七百則の公案はこの真理を指し示す。故に禅師たちは様々な手段——眼色動作、喜怒哀楽、払子を挙げ下ろすなど——を用いて学人を導き悟入させる。徳山の棒(打つこと)、臨済の喝(喝を入れること)、これらは皆慈悲の行いである。もし我がもとに来れば、私は足蹴りで接する。学人が足蹴りを受けた時、因縁熟した者は金剛般若心を得る。雲門は師匠に門で足を挟まれ、大声を発して悟りを開いた。これらは枚挙に暇がない。悟りを得れば無生忍を証し、実相智慧が顕現する。我・人・衆生の虚妄を知り、真実の出生なく、如来蔵自身も生じない。この理を認めることが無生忍である。ただ忍ぶことが極めて難しい。
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