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日常法話

2026年08月28日    金曜日     第1開示 合計4823開示

意根の思心所法が眼識と意識の了別を決定する

眼識が色を見るのは、顕色を見るのであり、青・黄・赤・白、光明と黑暗、雲や煙、霧および空である。光明は一種の物質であり、四大から構成され、刹那に生滅変異するものであって、虚妄不実なものである。

眼識そのものが思心所を具えており、色塵を領納した後、色塵を了知し、それから思心所を生起させ、造作を決定する。避けるのか、それともしばらく見続けるのかである。眼識は意根および意識と同時に緊密に協力し合っており、意根の作意と思心所法がなければ、眼識と意識の出生と了別はなく、また眼識と意識の五遍行心所法の運行もない。眼識が色を見る場合、第七識は色を見ることはできない。意識が分析・推理・判断する場合、第七識は推理・分析をすることはできない。識には分別・了別・識別の性質があってこそ識と呼ばれるのであり、さもなければ識とは呼ばれない。七つの識はすべて了別・分別・識別の性質を具えている。

<h2 style="text-indent: 2em;">意根に判断力があるか否か</h2>

智慧があれば判断力があり、思量 (manasikāra/manana) があれば思量の結果がある。意根には必ず判断力があり、思量こそが判断である。意根は作主識であり、五陰身全体の運行を主宰している。判断力がなければ五陰身の身口意行を主宰することはできず、それでは作主識とは言えなくなる。では、誰が作主するのか? 意根の判断力は不可欠なものであり、ただ判断力の大いさと小いさの問題、そして正確か否かの問題があるだけである。

意根の判断には次のような差別がある。意根がどの法において判断力が大きく、どの法において判断力が小さいか。いつ判断力が大きくて正確であり、いつ判断力が小さくてあまり正確でないか。どのような場合に六識の了別に依拠して判断し、どのような場合に六識の了別に依拠せずに判断できるか。意根が了別を明確に行っている法においては判断力が大きい。なぜなら、了別が明確でこそ判断しやすく、迅速かつ正確な判断ができるからである。意根が了別を明確に行えなければ、判断ができないか、あるいは迅速かつ正確な判断ができない。意根にとって理解できない法については、ためらうか、判断が狂うかであり、このような場合、意根の下す決策は盲目的で誤ったものとなる。意根の択択が誤れば、六識の執行も誤ったものとなる。

しかし、観察してみると、世俗法において、衆生の択択はすべて誤っていて盲目的なのだろうか? 明らかにそうではなく、正確無誤な場合も少なくなく、多くの場合は情理にかなっているはずである。これは意根に判断力があり、その判断力も決して小さくないことを示している。判断できない場合も存在し、優柔不断な場合も存在し、判断を誤る場合もさらに存在する。これは意根本身の智慧と関わり、意根の勝解力と関わっている。

意根の判断は、一方では法に直接依拠して判断する。意根が慣れ親しんでいる法ほど、経験の多い法ほど、単独で判断しやすく、重大で緊急な法ほど、単独で迅速に判断しやすい。その後に択択を行い、六識が出生してから造作する。もし意根が接触した境界法を勝解できなければ、迅速かつ正確な判断を下すことができない。他方では、意根の了別は粗いため、細かく了別するには六識の了別に依拠し、意識の思惟・分析・研究・推理と判断に依拠し、それから六識から伝えられてきた情報に基づいて、自ら単独で思量 (manasikāra/manana) と判断を行い、六識が出生して執行する。もし意根が六識の了別した内容を勝解できず、意識が思惟・分析・理解・判断した内容を勝解できなければ、判断や択択を下すこともできず、あるいは判断・択択を誤り、六識がさらに誤って執行することになる。


——生如法師の開示
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意根の強大な択択性

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