衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月30日    日曜日     第1開示 合計4824開示

意根の強大な択択性

意根の思心所の機能は非常に強大であり、神様は一切の法に対して主となって択択を行い、一切の法の上にすべて思量性 (manasikāra/manana) があり、すべて衡量を行わなければなりません。その作主性と択択性の機能は非常に強大で、神様に代わることのできる識は一つもありません。意根が意識を通じて仏法に接触し、仏法によってしっかりと薫陶された後は、心心念念がことごとく仏法となり、修行の習慣が養われ、一種の修行の習気が形成されます。ついには眠ってしまってもなお思量し続けており、あまりに細かく具体的な内容を思量できないために夢境を作り出し、夢の中で意識に一緒に参与させます。意根が仏法に薫陶された後は、他のいくつかの世俗法を放棄する可能性があり、それらの法はもはや重要ではないと考えたり、あるいは如法ではないので排斥すべきだと考えたりして、重要でない法を思量し了別しなくなります。すると、夢境の中には比較的重視している仏法以外の事柄は現れなくなります。

意識の忘却と記憶は、意根の選択性によって生じるものです。意根が重要だと考える事柄は、絶えず攀縁して気に掛けます。意根が重要でない、良くないと考える事柄は、もはや攀縁せず気に掛けることもありません。根と塵が触れ合わず意識が現れないため、意根が興味を持たない事柄を了別せず、意根が興味を持ち重要だと考える事柄を思い起こし、回想することができるのです。これが記憶と忘却の原理です。ですから、意識が了別する法の中で、意根の攀縁と了別を経由しないものは一つもなく、意根が念じて現したのでないものも一つもありません。意根が念じず駆り立てなければ、意識は出生せず了別もしません。意根が先に法塵を了別した後、興味がなければ、意識は現起することができず、この法塵を知ることはできず、この事に関する夢境はなおさら現れることができません。

<h2 style="text-indent: 2em;">意根は智慧があればあるほど正しい思量と択択を行うことができる</h2>

意根が六塵の具体的な境界を了別する際、その智慧は比較的低劣であり、六塵が具体的にどのような境界であるかを分別することができず、好悪・美醜・粗細・高低・大小も知りません。神様の攀縁があまりに広範囲に及んでいるため精力が足りず、そのため分別がはっきりせず、細やかでもないのです。しかし、意根自体にも思量性があり、想心所を有し、その思量了別の作用も非常に強大です。その思量性に依って、一切の法に対して択択を行うことができ、しかもそれは刹那刹那の思量と択択であり、一つの法も空しく過ごすことはありません。無始劫以来、意根は正しく思量し、多くの人・事・物・理を正しく択択して、無数の誤りと災難を避けてきました。その功績は見過ごすことのできないものです。

多くの人、特に智慧のある人は、意根の択択には正確無誤な時があり、非常に高い智慧を示した人もいます。これらの智慧の表れは、すべて意根が正しく思量し択択した結果です。もし意根が正しく思量し択択することができなければ、すべての択択が誤りで低劣なものとなり、そうなればすべての衆生は愚痴で無智であり、将来も智慧を得ることができず、転識成智さえできなくなります。実際、世俗法においても、仏法の修行においても、確かに多くの人が智慧を持っており、これは彼らの意根が行った思量と択択が、すべて正確無誤で智慧に満ちていることを物語っています。特に煩悩を断除した後、転識成智した後は、意根の智慧による思量と択択はなおさら不可思議です。

——生如法師の開示
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意根の思心所法が眼識と意識の了別を決定する

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意根に判断力はあるか?

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