衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月18日    月曜日     第1 回の開示 合計1344回の開示

金剛経唯識深義(十一)

ある時世尊が法座に着座されると、文殊菩薩が進み出て講卓の撫尺を打ち鳴らし「世尊の説法はこれにて終了」と宣言しました。その言葉と共に世尊は座を下り、実に説法は完結したのです。如来蔵の大法は瞬時に伝え尽くされ、まさに世尊が講堂の扉を押し開かれた瞬間に説法は終了しており、即座に講堂を退出されても良かったのですが、弟子たちはただ呆然と見守るばかりでした。梁武帝時代の傅大士や唐代の禅師たちも同様の公案を残していますが、凡夫にはこの機微が理解できず、善根深き菩薩のみが悟り得るものなのです。

禅宗第二祖は阿難尊者です。世尊が涅槃に入られた後、阿難が大迦葉に問う「世尊は金襴の袈裟の外に何を伝授されましたか」これは如来蔵を問うものでした。すると迦葉は「阿難よ!」と一声呼びかけ「これこそが伝法である」と示したのです。しかし阿難は理解できず「はい」と応じただけ。迦葉はやむなく「門前の旗竿を倒せ」と命じました。阿難は当初「密意を問う私に旗竿を倒せとは」と困惑しましたが、やがて瞬時に悟り、禅宗第二祖となったのです。こうして西天二十八祖が代々相伝し、大唐六祖を経て明朝末期まで続きました。その後悟入する者は極めて稀となりましたが、今なお存在します。仏はこの世の衆生を見捨てることはないのです。

この金剛経第一品は禅宗の公案そのものです。世尊は一語も発せずに法を伝えられましたが、極めて難解で上根の者にしか理解できません。禅修行の究極目的は如来蔵にあり、十方世界のあらゆる仏国土で悟られるこの心、その所在と作用、万法を生じる理、五陰十八界を出生する法こそが核心です。これに外れれば全ては方向を誤ったもの。理を少々理解するだけでは如来蔵の体性を知らず、その作用原理を観察できなければ証悟とは言えず、せいぜい解悟の域を出ず、生死を超えることはできません。

——生如法師の開示
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