三昧(さんまい)はサンスクリット語であり、禅定(ぜんじょう)を意味します。三昧の中には禅定の境地もあれば、程度の異なる智慧(ちえ)の境地もあります。もし智慧が深くなければ、三昧は主に禅定の境地となりますが、智慧が深ければ定慧等持(じょうえとうじ)の境地となります。
念仏三昧の段階は様々であり、禅定を主とする念仏三昧は、口で念仏を唱えて禅定に入るものです。歩くときも座るときも臥すときも念仏を唱え続け、最終的には「念じないで念じる」状態となり、念仏の声が絶えず心の中や耳元にこだまします。聞こうとしなくても聞こえ、途切れることがありません。
定慧等持の念仏三昧は、無生忍(むしょうにん)と無生法忍(むしょうほうにん)を証得します。例えば、観像念仏(かんぞうねんぶつ)や観想念仏(かんそうねんぶつ)がこれに当たり、口と心で念仏を始め、最終的に独影境(どくえいきょう)が現前し、定果色(じょうかしき)が出現して無生の理を証得し、自性仏(じしょうぶつ)を明らかにします。
白骨観(はっこつかん)や不浄観(ふじょうかん)を修め終えた後も、三昧の境地であり、定慧等持となります。禅定は一心の境地であり、初禅以上を指します。智慧は無生を証得し、色身(しきしん)が不浄であること、五蘊(ごうん)に我がないことを悟ります。その果位(かい)は三果や四果であり、これも小乗の空三昧(くうさんまい)です。独影境が現前し、定果色が出現します。
四念処観(しねんじょかん)を修め終えたものも小乗の空三昧であり、定慧等持を成就し、三果・四果を成就します。
大乗の三昧としては、一つは念仏三昧の成就、もう一つは『観無量寿経』の十六観があり、いずれも定慧等持です。三昧にならないものはなく、禅定がなければ智慧の観察も成就しません。これらの三昧では、往々にして禅定が智慧よりも多い傾向にあります。
大乗の参禅(さんぜん)も、最後に参究を破る(はさん)時には三昧の境地となり、禅定と智慧を備えています。もし禅定が浅ければ智慧も浅く、七住位や八住位までしか成就しませんが、禅定が深ければ智慧も深く、初地や二地の位に至ることができます。心が如来蔵(にょらいぞう)の空性(くうしょう)に住し、五蘊自身が全て空性の如来蔵となります。歩くときも座るときも臥すときも、あたかも如来蔵の中にいるかのようで、五蘊の我というものはありません。
小乗の観行参究(かんぎょうさんきゅう)で我見を断つ時も、三昧が現前し、禅定と智慧を備えます。禅定が浅ければ智慧も浅く、一果や二果までしか成就しませんが、禅定が深ければ智慧も深く、三果や四果を成就できます。心は五蘊無我の空三昧の中にあり、五蘊の我という覚受(かくじゅ)はありません。縁に触れ境界に対しても、心に我相(がそう)が起こらず、いかなる人や事とも仇敵(きゅうてき)として対立せず、自らの周囲の一切を意に介しません。なぜなら心の中に我がないからです。
もしそれが意識による仏法の理解、あるいは解悟(げご)によるものであれば、三昧は全くありません。禅定の境地もなく、空の覚受もなく、心の中には依然として我が存在します。我の心は死なず、縁に触れ境界に直面した際には、必ず意識の作意(さい)に頼って初めて五蘊が無我であることを思い出さなければなりません。一旦意識が覚照(かくしょう)を失うと、我の心が突然湧き上がり、身口意(しんくい)の行いを把持(はじ)できなくなります。そして意識の覚照作用は非常に限定的で、途切れが非常に甚だしく明らかです。常に覚照を失い、保持できません。たとえ意識の力が強大で、しばらくの間保持できたとしても、遅かれ早かれ覚照を失います。特に命終(みょうじゅう)の時はそうです。
あらゆる三昧は、禅定の境地を主とするものであれ、定慧等持のものであれ、全て意根(いこん)が成就した結果です。意根を定着させ、散乱せずあちこちに攀縁(はんえん)しなければ、初めて禅定の境地が生まれます。そうして意根が十分な精力を持って、意識がもたらす法を思惟(しゆい)し、法の根本的な意義と実質的な内包を明らかにすることができ、三昧が必ず現前します。これこそが証得(しょうとく)と呼ばれるものです。
4
+1