観無量寿経の日想観であれ、白骨観であれ、その他の様々な観行であれ、最終的に成就する段階に至れば、意識による作意を用いずとも、目を開け閉じする際にその景象が自然に現前する。もちろん意識で作意すれば、その景象はより鮮明になる。
いわゆる成就とは、自然に現れる状態を指し、これを三昧と称する。自然に現れず意識による作意を必要とするものは、成就とは見なされず、三昧ではない。三昧とは深い禅定の境地を指すが、智慧の境地を含むことを排除しない。智慧と禅定が有機的に結合した状態を三昧と呼び、いずれかが欠けても三昧とは言えない。この三昧には既に相当深い禅定が含まれており、必ず意根が訓練され熟達している状態である。意根が熟達すれば、時を移さず作用し、常に心中にこのような景象が顕現する。
もし定力を修得せず三昧が成就していなければ、意根が薫習によって形成されていない状態であり、ただ意識が熟達しているに過ぎない。意識が熟達して作意すれば、それに引きずられる形で意根が作意し、その後境界が顕現する。しかしこのような境界は継続的ではなく断続的であり、定力が不十分であるため、三昧とは称し得ない。
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