衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月20日    水曜日     第3開示 合計1349開示

疑見とは何ですか。どのように疑いの結びを断つのですか。

内心に決着のつかない法が存在し、五蘊が果たして実在するかどうか、生滅無常であるかどうか、頼りにできる不滅の我であるかどうか、未来世へ赴けるかどうかを確定できない。これに対して疑惑が晴れないと、躊躇して決断できず、そうなると依然として五蘊に依存し信頼を置くことになり、五蘊に依って造作された三悪道の業は消えず、業に随って三悪道を流転することになる。この疑見は煩悩の結縛であり、断たなければ必ず煩悩あるいは業苦が滅びない。どうすれば疑見の煩悩を断つことができるのか?

ある人は、五蘊には確かに我がないと一たび思えば、心の中の疑惑は消え、五蘊無我を確認して疑結を断つと言う。意識がわずかに五蘊の苦・空・無常・無我を思惟するだけで、内心深くの疑惑を断除できるだろうか?おそらく無理である。無始劫以前から、私たちは世俗法における無数の事柄について全く疑惑を持たず、むしろある人は生涯自分の行いを疑わず、自分は正しく、智慧があると思い込んでいる。しかし死の直前まで、彼はまともなことを一つも成し遂げられなかったかもしれない。生きている間は確かに自信に満ちていたが、智慧が欠けているため、自分に智慧がないことを知らず、知らないことへの自信は頼りにならないのである。

したがって、自分は確かに五蘊無我を認めて我見を断ったと強く信じている人もいるが、この確信は盲目的である。臨終時に事実が目の前に現れても、業に随って漂流するだけであり、少しも主導権を握ることはできない。

ではどうすれば疑結を断除できるのか?必ず禅定を修め、禅定の中で細心に観行思惟し、あるいは仏の説かれた四念処の観行方法に従い、真実に努力を重ね、手抜きをしてはならない。着実に八正道・七覚分を修行し、禅定と空三昧を発起しなければならない。

仏在世時の大根器の衆生、特に極大根器の衆生は、五蘊無我の理を聞いたその場で、四果阿羅漢を証得し、袈裟を着け、髪と髭が自然に落ち、神通が現前することができた。例えば大迦葉・舎利弗・須菩提などである。彼らは前世で四果を証得してから現在まで無量劫、あるいは三つの無量劫を経ており、その身分はおそらく仏の再来者である。彼らが一言を聞いただけで直ちに証果できるのは当然である。なぜなら末那識(意根)が無量劫以前にすでに証果しており、今世の五蘊は新しく、意識も新しいが、末那識は一度も断滅せず、ずっと五蘊無我を知っている。ただ意識が知らないだけである。今世の意識が一句の仏法を聞けば、思惟することなく五蘊無我を証得できる。そして末那識は元々知っているので、意識が再び苦労して末那識を熏習し教える必要がなく、こうして証果が非常に速くなるのである。

前世で証果したことがある者は、今世の証果が非常に速く、意識が再び末那識を熏習し教える必要がない。前世で証果した回数が多いほど、今世の証果は速い。なぜなら末那識が道を妨げないからである。

末那識が熏習され転換された者は非常に利発で、意識が理解できれば十分である。もし前世で初果だけを証得していたなら、今世で初果を証得するのは容易だが、二果を証得するのは容易ではない。なぜなら末那識が初果レベルの観行智慧にしか対応していないからである。

前世で二果を証得した者は、今世で二果を証得するのは比較的容易だが、三果を証得するのは容易ではない。なぜなら末那識が三果にはまだ対応しておらず、三果の内容を再び熏習し教え、意識と末那識が共に三果を証得しなければならないからである。

前世で三果を証得した者は、今世で再び三果を証得するのは比較的容易だが、四果を証得するのは容易ではない。なぜなら末那識が四果の境界には対応しておらず、四果の内容を再び熏習し教え、意識と末那識が共に四果を証得しなければならないからである。

これが再来者が証果や明心を他者より速く成就する理由である。

——生如法師の開示
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三昧は禅定と智慧が結びついた産物です

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金剛経唯識深義(十七)

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