衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月20日    水曜日     第5 回の開示 合計1351回の開示

金剛経唯識深義(十八)

大乗正宗分第三

原文:仏は須菩提に告げたまわく、「諸の菩薩摩訶薩はかくのごとくその心を降伏すべし。すべて一切の衆生の類、もし卵生、もし胎生、もし湿生、もし化生、もし有色、もし無色、もし有想、もし無想、もし非有想非無想、われことごとくに無余涅槃に入りて滅度せしめん。かくのごとく無量無数無辺の衆生を滅度せしめども、実に衆生を得て滅度せしむるものなし。なぜならば、須菩提よ、もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、すなわち菩薩に非ず」

釈:この章は主に菩薩たちが四相を破り、人我見を断ずる問題を説く。菩薩が三界四生九有二十五類の衆生を教化して滅度せしめ、ことごとく無余涅槃に入らしめるときも、不如理な思惟観を起こすべからず。すなわち「これらの衆生はわが化度するもの、われこれほど多くの衆生を度した」と思ってはならない。菩薩がこのように考えるなら真の菩薩にあらず。真の菩薩は般若実相の智慧に依って四相を破り、心中に我相・人相・衆生相・寿者相なきべきである。

仏は須菩提に告げたまわく、「諸の菩薩摩訶薩はかくのごとくその心を降伏すべし」。摩訶は漢語で大なる意味。仏経中の大菩薩は一般に明心証悟以上の菩薩を指し、賢人の品德を備える。厳密に言えば登地以上の菩薩を大菩薩・法身大士と称し、仏の一分あるいは多分の法身を証得し、一分あるいは多分の無生法忍の智慧を具え、一分あるいは多分の道種智を有し、聖人の品德心性を備える。これを分証即仏とも称す。もしただ菩薩の熱心と善心のみあり、解悟あるいは若干の仏法を理解するが無生智慧を出生せざるならば、大菩薩と称すべからず。菩薩が初めて無生忍を開悟し、人無我を証得するとき、五陰十八界が虚妄無我なることを忍可し、真実の出生なきを知る。しかも如来蔵もまた生ぜず、無始劫来より存在することを覚り、かくして大乗無生の智慧を生ず。

——生如法師の開示
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