衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年03月22日    金曜日     第3開示 合計1356開示

金剛経唯識深義(二十三)

仏が涅槃に臨まれる時、外道を修めていた120歳の老修行者がいた。彼は阿難の五百世の父であり、非想非非想定までも修得していたが、依然として人間界に住んでいた。仏は阿難に命じて彼を呼び寄せ、その禅定の中にはまだ微細な想いがあり、その最も微細な覚知心すらも真実の我ではないこと、それを滅すれば三界を出て解脱を得て、生死を超越できると説かれた。老修行者はこれを聞くと直ちに四果阿羅漢を証し、仏に「私は仏の般涅槃を見るに忍びません。先に去ります」と言い終えると、無余涅槃に入った。

無余涅槃とは、衆生が我見と我執を断ち、もはや執着がなくなり、自らの五蘊と十八界を捨て去ることを指す。こうして苦しみが依存する基盤を失い、苦から離れ苦を捨てる。全ての苦を滅すれば解脱して三界を出る。ただ阿頼耶識のみが独存し、もはや自己というものは存在しない。菩薩たちは三界中の四生九有二十五類の衆生を度化し、彼らを教化して四果阿羅漢とし、生死を超越させる。命終われば皆無余涅槃に入り解脱を得る。

世尊はさらに続けて説かれた:このように無量無数無辺の衆生を滅度させたが、実際には一人の衆生も滅度を得た者はいない。これほど多くの衆生を滅度させながら、一人も滅度させていないとはどういうことか。滅度とは先に述べた無余涅槃に入ることであり、五蘊と六根・六塵・六識から成る十八界の自我を全て捨て去り、滅し尽くすことである。そうすれば衆生は存在しない。五蘊があれば衆生であり、五蘊がなければ衆生とは呼べない。十八界がなければやはり衆生とは呼べない。つまり度されるべき衆生は存在せず、単独で残る阿頼耶識も衆生ではない。こうして一人の衆生も度されておらず、滅度を得た衆生は一人もいないのである。たとえ五蘊十八界が滅び去っていない時でさえ、同様に衆生は存在しない。なぜなら五蘊十八界という相は幻化したものであり、存在は仮の存在であって真実の存在ではなく、一時的な存在に過ぎないからである。衆生と言うべき衆生は存在せず、全てが如来蔵の相貌であり、如来蔵の性質である。如来蔵自体は度する必要もない。ゆえに無量数の衆生を滅度させながら、実際には一人も滅度させてはいないのである。菩薩はこのように衆生を度すべきであり、衆生を度すという思いも持つべきではない。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経における唯識の深義(二十二)

次へ 次へ

意識の解釈は意根の実証に代わり得ない

ページトップへ戻る