仏が涅槃に臨まれる時、外道を修める120歳の老者がおり、彼は阿難の五百世の父親であり、非想非非想定をも修得していましたが、依然として人間界に留まっていました。仏は阿難に命じて彼を呼び寄せ、「その禅定の中にはなお微細な想いが存在し、その最も微細な覚知心もまた我ならず。これを滅すれば三界を出て解脱を得、生死を超越せん」と諭されました。老者はこれを聞くや即座に四果阿羅漢を証得し、仏に「仏の涅槃を拝見するに忍びず、我先に行きます」と告げ、無余涅槃に入りました。
無余涅槃とは、衆生が我見と我執を断ち、もはや執着することなく、自らの五陰と十八界を捨て去ることを指します。これにより苦は依るべき所を失い、苦を離れ苦を捨て、全ての苦を滅して三界を解脱し、ただ阿頼耶識のみが独存し、もはや自己というものは存在しなくなります。菩薩たちは三界中の四生九地二十五類の衆生を度化し、彼らを教化して四果阿羅漢と成らしめ、生死を超越させます。命終われば皆無余涅槃に入り、解脱を得るのです。
世尊はさらに続けて説かれました。「かくの如く無量無数無辺の衆生を滅度せしめながら、実は一衆生も滅度を得るものなし」。これほどの衆生を滅度しながら、一人も滅度せしめていないとは如何なる意味か。滅度とは先に説きたる無余涅槃に入ることであり、五陰と六根六塵六識より成る十八界の自我を全て捨て去り、滅し尽くすことにより、もはや衆生は存在しなくなります。五陰あれば即ち衆生なり、五陰なければ衆生と称せず、十八界なければまた衆生と称せず、つまりは度されるべき衆生は存在せず、独り残る阿頼耶識もまた衆生にあらず。これにより、一衆生も度さず、一衆生も滅度を得るものなし。仮に五蘊十八界が未だ滅せざるときも、同様に衆生は存在せず、五蘊十八界の相は幻化の如く、存在は仮の存在に過ぎず、真実の存在ではなく、暫くの有り様に過ぎません。衆生と称すべきものは存在せず、全て如来蔵の相貌であり、如来蔵の性質そのものです。如来蔵は度する必要もなく、故に無量数の衆生を滅度せしめながら、実は一衆生も滅度せしめていないのです。菩薩はかくの如く衆生を度すべく、また衆生を度すという想いを抱くことなかれ。
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