牢関とは、文字通り監獄の関所を指します。何が監獄かといえば、三界は監獄であり、五蘊の世界は監獄です。監獄を出る関所はどこにあるかといえば、我見を断ち我執を断つことにあり、さらに如来蔵というこの我すらも執着せず、心を空しく清浄にすることです。これは如来蔵を証得して初めて論じ得る境地であるため、これを禅宗第三の関所と言います。この点を成し遂げられれば、生死の監獄を出る関所を通り、三界から解脱し、五蘊身の束縛から解脱することができます。小乗の教えで言えば、少なくとも三果の解脱功徳を具え、心は解脱し、貪愛と瞋恚の煩悩を断除し、命終には我執を断ち、一念の無明を断除し、有余涅槃を証取する能力を得ます。禅定においては初禅定があればよく、あまり高い禅定は必要としません。もちろん禅定は高ければ高いほど良いのですが、ある者が説くように五蘊身を木石の如く修めたり滅却させたりする必要はなく、これは何地の菩薩あるいは八地菩薩に至って初めて修得できる境地です。禅宗第三関の前後に位置する者は、十行位と十回向位の菩薩に属し、八地菩薩とはまだ隔たりがあります。
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