そして六識は識蘊であり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、これら全ては六根が内六塵に触れ、如来蔵より生じたものである。もし意根が六塵に興味を持たなければ、如来蔵は六識を生じず、見ても見えず、聞いても聞こえぬといった無心の現象が現れる。無想定や滅尽定に入れば、意識心も現れず、衆生は全く知覚せず、一切の分別を離れる。
以上の通り、衆生の五蘊十八界の法は全て生滅幻化するものである。五蘊身は影絵芝居の人形の如く、電動人形の如く、空に浮かぶ雲が描く猫狗の像の如く、テレビ画面の人物の如く、極めて実体なきものである。衆生は無明によりこれに執着し、身口意の業を妄りに造り、六道輪回を出でず。もし仏子がこの輪回の苦海を超えんと願わば、常に上記の教えに従い、五蘊十八界の虚しさを観行思惟すべし。かくして小乗の果を証得し、さらには大乗仏法の道に悟入し、真実の如来蔵を証得するに至るであろう。
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