衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年03月25日    月曜日     第1開示 合計1366開示

金剛経唯識深義 第三十

布施の因縁果報は如来蔵によって実現され、布施という行為の全過程は如来蔵によって摂持され記録される。因縁が熟した時、如来蔵がこの業の種子を出力すると、衆生は福徳の果報を受ける。一般的に、この果報は後世で得られるものであり、異熟業と呼ばれる。しかし、この業が非常に大きい場合、現世で縁が熟せば、現世で報いを受ける。衆生が造った業の果報は決して消えず、善業・悪業・無記業はすべて如来蔵によって収蔵され出力され、決して錯乱せず、漏失することもなく、甲が造った業が乙のものとして記録され乙が報いを受けることもない。一般的に、善悪の業の報いを受け終わると、業の種子は消滅する。また、造った悪業は懺悔によっても消滅でき、証果を得るか明心見性した後は三悪道の業を消滅させることができ、後世には三悪道に堕ちなくなる。どの業が強いかによって、先にどの報いを受けるかが決まる。修行者は常に善業が悪業を上回るようにすべきであり、そうすれば悪業は一時的に報いを受けず、非常に長い時間が経つと業の種子は枯れてしまう。例えば五逆罪を犯した衆生が下品下生で極楽世界に往生し、十二大劫の間蓮華の中にいる場合、業を造る機会がないため、業の種子は徐々に枯れ、心が清浄になると蓮華から出てくる。

無畏施には衆生の生命を救済すること、衆生の困苦や危難を解決すること、心理的障害を取り除くことなどが含まれ、健康長寿・平安快楽・諸事順調及び富貴の果報を得ることができる。時には財施の中に無畏施があり、無畏施の中に財施がある。一方、法施は福徳と智慧の両面の果報を得られ、無畏施の果報もある。経典を講じ説法し仏に代わって宣化することは直接的な法施であり、経典を印刷し僧宝を護持して弘法することは間接的な法施である。しかし最も良いのは、修証を経て道眼を得て、大乗・小乗の智慧を開き、根本仏法を間違って説かず、衆生を誤った修行の方向に導くこともなく、ましてや衆生の法身慧命を断つこともないようにした後、自ら経典を講じ説法して衆生を接引することである。これが最善である。衆生が法師の弘法を護持する場合も、択法眼を備える必要がある。択法眼は七覚分の一つであり、法の正誤を弁別する能力である。そうでなければ、根本仏法を誤って宣伝したり補助宣揚したりした場合、その果報もまた重いものとなるため、必ず慎重に行うべきである。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経唯識深義(二十八)

次へ 次へ

金剛経における唯識の深義(三十一)

ページトップへ戻る