原文:何故でしょうか。菩薩が相に執着せずに布施を行えば、その福徳は計り知れないからです。
解釈:相に執着した布施とは、心が相に制限され、心の量は小さくなります。その福徳も限られたものとなり、心が六塵の相を超えられなければ解脱を得ることも成仏することもできません。布施を行う心は妄心の七つの識、特に第六識と第七識が主となります。布施を決定するのは意根である第七識、すなわち末那識(まなしき)です。これは「布施すべきか」「何をどれだけ誰に布施するか」を思量し決定します。布施前の分析や推理、判断、観察はすべて意識が行い、その結果を意根に報告して説得を試みます。しかし意根は思量の後、時に従い時に従わないものです。故に我々は時に「こうすべき」と感じつつ、実際には逆の行動を取り、自らも歯止めの効かない様を見ることがあります。色法原文の意図の根元は必ずしも意識の導きや諫言に従うとは限りません。
仏法を学んだ後、肉食が良くないと知り菜食を心掛けても、お肉を見ると食べたくなり自制できないのは、意根が自らの習気に従って行動するため、容易には変わりません。百円の布施を約束しておきながら、実際に金を出す段になると躊躇するのも同様です。約束時は意識が分析を経て「然るべき」と判断しますが、金を出す段では意根が主導権を握ります。意根は自我執着が強く、施しを好みません。長期間の薫陶と意識による説得を経て初めて変化するため、意根が変われば全てが変わり、我々の果報も異なってくるのです。菩薩が相に執着せず布施すれば、福徳は量り知れません。如来蔵の福徳は言葉で表せぬほど多く、宇宙虚空も三千大千世界も華厳世界も世界海も、諸仏の三十二相八十種好も、全てこれに属します。しかし如来蔵は何も求めず、その福徳は言葉では表し得ないのです。
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