衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年03月27日    水曜日     第1開示 合計1369開示

金剛経唯識深義(三十六)

如理実見分第五

この分は四相を破った後、更に一歩進んで仏の身相を含む全ての相を破り、如来の法身を浮き彫りにし、実相の法を顕わすものである。

原文:須菩提よ、汝はどう思うか。身相をもって如来を見ることができるか。須菩提答えて曰く、否です、世尊よ、身相をもって如来を見ることはできません。

釈:仏は言われた。須菩提よ、汝はどう考えるか。如来を見るとは如来の色身を見ることか。色身のあるものが真の仏なのか。身相をもって如来を見るのか。須菩提は言った。そうではありません。如来を見るのは身相によって見るのではありません。真の仏は必ずしも相があるわけではなく、魔王も三十二相の仏を化現できるが、それは真の仏身ではない。

仏には三身がある:法身、報身、応身である。法身は真如の理体であり、見ることも聞くことも触れることもできず、相がない。しかし、どの一つの相も法身でなくてはならず、法身によって顕現されるのでもなく、法身によって成就されるのでもない。法身はまた大円鏡智とも呼ばれ、大千十方世界を照らし、一法たりともその光明の外にあることはなく、この円鏡の外に脱することはできず、全て鏡中の像である。法身は無量無辺の広大な智慧を具え、知らない法は一つもなく、変現できない法は一つもない。功徳は円満であり、万法を具足し、一切種智とも名付けられる。報身仏は仏が三大阿僧祇劫の修行によって報いとして得た荘厳なる色身である。釈迦仏の報身は色究竟天宮に住し、初地から十地までの法身の大士のために説法し、道種智、成仏の智慧を説き、菩薩たちに如来蔵の中に含まれる功能の種子を修学させる。しかし菩薩は四禅以上の禅定がなければ、色界の最高天に生まれて仏の親説を聞くことはできない。

報身仏には自受用身と他受用身がある。自受用身は仏自身が受用するものであり、他受用身は世尊が菩薩たちのために顕現するものである。菩薩の証量が異なれば、見る報身仏の身量や身相も異なり、これは菩薩の福徳と智慧が感応したものであり、仏に分別があるわけではない。報身仏の寿命は七百万阿僧祇劫である。一阿僧祇劫には無数の大劫があり、一大劫には成・住・壊・空の四つの中劫があり、一中劫には二十の小劫があり、一小劫には千六百八十万年がある。仏の報身の身量は非常に広大で、地球と比べると仏の手の中のピンポン球ほどの大きさである。仏の両眉の間にある一本の白毫を伸ばせば、五つの須弥山を巡らせることができる。

応身仏は十方衆生の根機に応じて顕現する、衆生と似た色身であり、同じ寿命を持つ。八相成道を経て仏となる必要がある。つまり兜率天降誕・母胎入り・出生・出家・降魔・成道・説法・涅槃である。出家後、世尊は衆生と同じように托鉢・飲食・洗浴・睡眠・起居を示現された。仏はこれらを用いなくてもよいが、衆生のために敢えて示現したのである。なぜなら衆生の根機が鈍く、衆生と平等でなければ衆生は随順して学ぶことができず、仏は元々そうした神変であると思い込み、自分たちには学べないと考えるため、仏は衆生を教化できなくなるからである。応身仏が涅槃に入るのは、阿羅漢のように灰身泯智して何もない境界に住するのではなく、解脱色があり、常に一つの色身をもって衆生を利楽する。この世界で滅度しても、また他の世界に一つの色身を現じ、その色身は解脱しており、煩悩や習気がなく、一念の無明・無始無明・塵沙の無明を含む全ての無明を断じ尽くしている。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経唯識深義(三十三)

次へ 次へ

金剛経唯識深義(三十九)

ページトップへ戻る